le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

豊 満 礼 讃

男の目でみた女性の美は豊満にある。

 

   これは、男の本能的嗜好でもある。ここで、男の目とは、男の“セクシュアルな目”(sexual point of vue)であり、女性の美とは、女性の肉体の美ではある。

 

  こう言うと、それは、昔からの男尊女卑に囚われたいやらしい目だと非難する向きのあるかもしれない。さらには、その捉え方は差別であり、セクハラである、と。女であること云々よりも、まず何よりも人間として見るべきと主張するに違いない。  

 

  しかし、“性”を纏わぬ、ただの“人間”などいう存在があるだろうか。中性あるいは両性的な例外を除けば、人は必ずや男か女かである。そして、その男・女は、究極的には性の器官の違いでしかない。

 

  それ以外に、男女に本質的な差はないとする方が、よほど人間性に立脚した見方ではないか。(一方、それは身体に限っての話であって、精神のあり方こそ大切であるという考え方は、それはその通りであり、男・女に共通のことでもあって、ここでは立ち入らない。)

なぜ豊満がいいのか

 

  キーワードは、“美”、“豊満”、“本能”である。

 

  いずれもけっこう抽象的な概念である。まず、“美”とは何か。

 

  この定義は難しいが、肉体という即物的な“美”として、その反対の“醜”を考えてみると、見てあるいは触って、心地よい感じを与えるものが“美”の大きな要素であると言えるのではないか。

 

  ただ、例えば、富士山の形が心地よくて、瓦礫の山が不快感を与えるのは何故かよくわからないように、その幾何学的秩序の違いが何故心象に影響するのかは説明し難い。   

 

  とまれ、女性の肉体に限るなら、見て、触って、心地よいのを“美”とするのであって、その形が “豊満”なのである。  

 

  では、その“豊満”の心地よさはどこからくるのか。それこそが、男が生来にもつ嗜好である。

 

  それは、男の誰もが生まれて初めて触れる女体たる母の感触の原初体験に根ざしている。やわらかく、温かく、豊かな乳房、その匂いと心地よさ、温かでしっかりとわが身を受け止めてくれるお腹の膨らみ、そのお腹を支える腰の安心感。

 

  これらのすべてが、本能の深いところに、母なる安らぎとして印字され、生涯ついてまわるのである。生まれたばかりの動物にある、“刷り込み”である。

豊満とはどんな風か

 

  では、現実の女性における、“豊満”は、どう定義されるのか。その受け取り方は、人によってさまざまであろう。

 

  『暗夜行路』に、2つの乳房を手にうけて“ほうねんだ、ほうねんだ”と言う有名なくだりがある。“ほうねん”の反対は、“不作”“凶作”であり、肉体ならば“貧弱”である。

 

  人それぞれの“豊満”があっていいが、貧弱・貧相の対極にあるものと思えばいいのではないか。 

 

  ただ、“豊満”と“肥満”は区別しなければならない。肥満は健康上の均衡を逸脱した状態であり、豊満は、審美のバランスが眼福を与えるものである。

 

  肥満の英語は、fatfattyである。plump とか chubby は、豊満を越えて fat に近い。glmaour は必ずしも豊かさを伴うものではなく、また、日本語ではセクシャルな偏向がある。

 

  太めの婉曲表現である“ぽっちゃり”は、可愛らしさを伴うに対し、漢語の“豊満”には、凛々しさの雰囲気がある。

 

  もっとも、性の fetishism はさような雰囲気を突き抜けて、ひたすら太きを求めるもので豊満を発見した男はとかくその偏向に走りやすい。

今なぜ豊満の肩身が狭いのか

 

  いずれにしても、以上の“豊満”評価は、世間一般の見方に、多分反しているであろう。

 

  時あたかも、ダイエットブームであり、むしろ“痩せ”礼讃と言ってもいいからである。

 これは極めて現代的な現象である。

 

  古今東西、女性美は泰西名画にあるように豊満をもって理想とされていた。近いところでは、ボッティチェリルーベンス、そして、ルノワールなどが描くところの裸体に見るものである。 

 

  それが、現代に至り逆転したのには、2つの理由がある。 ひとつは、飽食のもたらした肥満に対する、健康志向からの反動である。

 

  人類は、何万年にもわたり、いつも飢餓の恐怖にさらされてきて、その備えとして、必要以上に摂取されたエネルギーは、必ず蓄えるDNAが形成されてきた。

 

  一方で、肉体的労働は、家庭でも仕事場でも、軽くなる一方で、かつて、豊かさの象徴でも あった豊満は、常に肥満へのリスクを伴うものになったのである。

 

  もうひとつは、ファッションの産業化である。

 

  日常の衣装は家庭で、ちょっとしたものは仕立て屋で誂えていた時代は、衣服の標準サイズなどはなかったが、大量工場生産になると、サイズ、体型とも、できるだけ少なく類型化するのが都合よく、衣服はいつのまにか、標準、つまり、中位のサイズが多数派となり、それ以外は枠外に押しやられていった。

 

  また、デザイナーなる職業の台頭しマスコミで喧伝され、彼らの作るものが至上とされ、それを着る人間よりも、衣装が優先されるようになった。

 

  衣装がより映えるように、長身・細身のモデルが使われ、着る者はマネキンか、処女的着せ替え人形のようになるを強制されるようになっていった。アニメではさらにその人形性は異常にデフォルメされている。  

 

  かくして、かつての豊満の美は隅に押しやられ細身信仰がはびこることとなった。豊満の美を復権せねばならない。   

 

  とは言え、所詮、これは好みの問題。 太かろうが、細かろうが、金子みすずを借りるなら、みんな違って、みんないいのである。