le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

真子 先生のこと

出会い

 

  小学校は3つ、中学校は2つ通い、担任だった先生の多くはもう名前も忘れたが、中学1年から3年の中途まで2年あまりを受け持ってくれた真子先生だけは、いつまでも心にかかっている。

 

  初めて教室に入ってまず目にしたのは、黒板に綺麗な楷書で大書された、「真子・淑子」。“まなごよしこ”と、ルビを振ってあった。その大きな名乗りにしては小柄な身にぴしっとした黒のスーツ、やや胴長のまっすぐ伸び上がる背筋、短めのストレートの黒髪に色白の瓜実顔、真っ赤な口紅、…子供ごころにも綺麗な女先生であった。

 

  あまり民度の高いとは言えぬ板橋区のはずれ、古ぼけてくすんだ板張り校舎に顔をそろえた、皆それぞれの身なりの新入生たちの前で壇上に一人きらきらと輝いていた。

 

  実践女子大国文科を出てまもない先生自身にとっても新たな一歩で、その使命に燃えていたに違いない。はきはきした声が不安げな私のハートにはびんびん響いてきた。そして、私の内面にずっとくすぶっていた知の熾火に点火してくれたようだ。

 

  私は突然、生まれかわったように、いや自分の内心では別人になったかの気分で猛烈に外界を吸収し始めた。どんなこともとても新鮮な興味が湧き、終日熱に浮かされたようなテンションで、夜もなかなか眠りにつくことができなかった。

  教科書はすべて数日で目を通してしまい、日本地図、世界地図を何時間も眺める楽しみを覚え、吸取紙が水を吸うように地名やデーターが記憶に蓄積されていった。高校生向け地理の参考書を買ってもらい、それをまた毎日むさぼるように読んだ。

 

  覚える必要もないどうでもいいことまでどんどん記憶になっていった。

  真子先生の国語の時間に、夏目漱石にどんな作品があるかの問いかけのあったとき、私は「二百十日」「野分」「夢十夜」などを答え、先生は表情は変えなかったが、なんて小生意気なと思ったに違いない。

 

  当然、「坊ちゃん」や「こころ」などを期待していた筈である。別に私もそれらを読んでいたわけではない。家にあった文学全集を眺めていたに過ぎない。

 

  もっとも、もう、例えば永井荷風の「つゆのあとさき」などまで、ただ字面を追うよに読んではいた。 

師弟関係

 

  入学後しばらく経って“クラス委員を決めねばならぬ、ついては最初だけは先生が指名する”という話があった。

 

  この学校では、いわゆる級長の役を「学習委員」と言い、先生はそれに私を指名した。何かクラスを代表する必要のあるときはその任にあたるというだけの役であるが、普段は授業の始めに「起立、礼」の号令をかけるのと、私語のあれば注意をする程度のことだ。

 

  先生の一番思案したのは、やはり、クラスをどうまとめてゆくかということであったと思う。できる子いい子ばかりの集まりではない、世話のやける子もたくさん混じっていたが、その先導役を期待しての指名だったに違いない。

 

  と言って、授業を壊すようなワルはいなかった。私の見るところ2人だけやや不良っぽいのがいたが、私は彼らとも親しくし彼らも私には一目おいてくれていた。

 

  そういうリーダーとしての任は先生にとっても私自身にとっても望ましいことであったが、もうひとつこれは、いいことかどうかわからないが、先生の助手的な役割も与えられた。放課後にガリ版による原稿づくりと印刷をよく手伝った。

 

  私はすこしもいやではなかったし、インクだらけになりながら、やや緊張のとけた先生との共同作業をむしろ楽しんだ。毎朝の10分ほど使ってやる、漢字テストの問題づくりまで手伝ったこともある。 

長期病欠

 

   私は運動が苦手であったが、短距離走と鉄棒だけは得意だった。区の連合運動会の100メートル走選手に選ばれたときである。

   放課後の毎日の練習に根を詰めすぎたのか、何か体調の優れぬ日が続き、医者に診てもらったら「肺門リンパ腺炎」と言われた。ただ、医者に通うことはせず、一年の3学期をまるまる休んだ。

 

  この間、先生が言い出してくれたのであろう、クラス全員からの手紙を代表が届けてくれた。

 

  ただ疲れやすいというだけで、これと言った症状はなく自由きままに日がな本を読んで過ごした。期末テストだけは受け、実技のある体育と音楽以外はすべて私がトップであった。私は決して秀才などではなく、そういうレベルの学校であったということだ。 

反抗

 

  善良なる小市民の家庭に育った私は、いたってまじめで、正義に燃える人間であったが、いわゆる“良い子”ではなく、反逆と悪戯精神に富んでいた。

 

  先生をずいぶん助けもしたが、困らせもした。

 

  当時、下校前には机を全部移動させて、箒がけと机・床拭きをしたが、そのとき男子はよくふざけっこや、時にとっくみあいをやって作業を乱したものだが、私はそれをとめるでなく、率先して仲間に入っていた。

 

  とくに理由もなく、何人か有志を募り廊下に並んで教室に入らないストライキを挙行したこともある。先生は全く動ぜず、たいてい我々が根負けした。

 

  一度、未だ後悔の念やまぬほど、先生を心配させ泣かせてしまったことがある。

  授業の途中、悪童1人を連れて学校を脱走したのだ。何をしたかと言えば、学校から歩いて一時間ほどの繁華街まで、映画を見にいったのである。東上線大山駅前であった。

当時大きな話題になった「マナスルに立つ」(写真右)の券が手に入り、どうしても見に行きたかったのであるが、そこはまだ子供か、周りの何人かにそれを吹聴していて、映画の終わるや館内呼び出しがかかった。

 

  すなおに学校に戻ったが、あの時の先生の悲しげな顔を忘れない。親も呼び出しを食らった。

  こんなこともあった。

  中間か期末かのテストの時であった。早やばやに答案を書き終えた私は、開け放しになっていた教室の後ろの出入口からそっと抜けだし、ひとり鉄棒をやっていた。

 

  何と呼ぶのか知らないが、得意だった技で、鉄棒の上に立ち上がり、後ろにのけぞって倒れながら両足の間に手を入れてバーをつかみ、倒れた回転の勢いを駆って、バーの下をくぐり、前方に滑空飛行するのである。

 

  その時、何故か、学童帽をかぶっていて、飾りボタンの金具が飛び出ていたのか、腕の付け根のところを思いっきりひっかき、どっと血が出てきた。保健室に駆け込み、手当してもらったが、駆けつけた先生ともども校長室に呼ばれ、こっぴどく叱られた。

  その時の傷跡はまだ薄く残っている。

淡い想い

 

  どれもこれも、親たちや先生など大人の庇護の元にあってこそできる、甘えの裏返しの自己主張に過ぎないが、その奥深くには、どう表現していいかわからない、ほのかな思慕の発露のあったのであろう。

 

  ひとつだけ思い出すのは、学年で狭山湖ハイキングに行ったときのこと。いつもの教師らしいスーツではない出で立ちの先生に、何か違う匂い立つもののあって、行程中、先生と同じペースで後になり先になりして、言葉を交わしたことがある。

 

 

  3年1学期の途中で転校することになったが、その時にどんな別れをしたか全く覚えていない。