le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire
英語教育の失敗
英語を教えることによって、英語をできなくしているのが日本の英語教育である。
英語をやる動機
グローバル化が進展し、また、アメリカ生まれのインターネットが世界を席巻する中、コミュニケーション手段としての英語は燎原の火のごとく広がっている。
その火はついに日本にある日本の会社で英語を社内公用語とするところにまで広がってきた。だが、記者発表での日本人ばかりを相手にした社長の英語スピーチの風景には、何か奇異なもの感じないではいられない。
社長の意図は、会社をグローバル化の波に乗せるための乾坤一擲の起爆剤としたいのであろうが、本来、これだけみな英語を勉強しているのだから自然体でいいはずが、実態はまったく覚束ないことへの危機感もあるのであろう。
だが、日常会話などはいいとしても、書類帳票、さまざまな事務処理はすべて日本語であろうし、何よりも、国内での取引先や顧客には、まさか、うちは英語でないと受け付けないなどとは言えない。
結局は英語と日本語が混在しその処理に膨大な手間をかけることになるであろう。
日本人の英語
一見、かっこいいようでいて、底に何か英語コンプレックスの漂う、この奇妙な状況は日本だけのことである。
と言うのも、日本はずっと世界第2位の経済大国であったのに、日本人の英語力は世界でも最低レベルにあるという屈折した心理背景があるからである。 日本はTOFELでの成績が170ヶ国余りの中150位くらいと、ブータンよりも低いというが、実際のところはどうなのであろう。
戦後の経済成長で日本が経済大国になったのは、世界を市場とした貿易拡大によるところ大であり、それは決して日本語によって達成したのではなく、世界に雄飛したビジネスマン達が、それぞれの国の言葉で商売した結果であって、TOFELの結果は必ずしも実態を示していないと思われる。
ただ、一般の人々が、中学、高校、大学と10年間も英語をやってきて、それが実際にはほとんど役に立たず、会話学校に行ったり語学留学したり、それでも不十分だからと敢えて社内公用語を英語にして、はっぱをかけようとしているというのは、これほど皆懸命にやっている割にはできないとは言えるのであろう。
日本人の英語の背景~2つの問題
では、その割の悪さは、いったい何が原因なのであろうか。この、英語に対する苦手意識はどこからくるのであろう。
よく言われるのは、日本人の、でしゃばらない、謙譲を美徳とするメンタリティーに帰するものであるが、そのような国民性あるいは資質の問題ではないと思う。
基本的には、ふたつある。ひとつは、英語教育。これまでの学校英語そのものが、頑固なバリアーになり、自信を失わせている。ふたつは、必要性の問題。実際のところ、大多数の日本人には、英語が必要がないからである。
英語教育の何がだめなのか
まず、英語教育。まさかもう、今の教科書には載っていないと思うが、ドリフターズのギャグにも使われた、“This is a pen.”。かつて、初めて習う英語の最初に出てきたものであるが、これは、日本の英語を教えることそのものが、英語をできなくしている象徴でもある。
この英語から、いくつかのことが指摘できる。
ひとつは、これは、正真正銘の英語ではあるが、見れば誰でもわかることを叙述するこのような英語は、日常会話の中でまずお目にかかることはない、多分、生涯ないであろう、つまり生きた英語ではない。他の教科書英語も推して知るべしである。退屈極まりない例文ばかり。
次に、これは、英語の基本構文SVCの形を示したいのであろうが、それは、文法から入る英語であり、まず、頭で日本語をつくることになり、会話習得の妨げにこそなれ、会話にはさして役にたたない。
そして何よりも大きな問題は、先にこの文字が提示されてしまうこと、つまり、視覚優先になることである。
人はどのようにして言葉を覚えるか。それは赤ちゃんの言葉の発達を見ればいい。
赤ちゃんは、母親の口からのさまざまな発信を、表情や触れ合いとともに音声として受け取る。その反復を耳を通じて脳に蓄積しつつ、それを鸚鵡返しに発することで、母親との交信の感覚を経験し、その数限りない繰り替えしを通じて、脳の言語野を発達させ、言葉を覚えてゆく。そして、それが文字という視覚情報と附合されるのは、ずっと後のことになる。
脳では、視覚情報と聴覚情報は左右の違う部位で処理され、言葉の習得は聴覚優先で行われる。(女性が男性より後天的な語学学習に強いのは、この左右を結ぶ脳幹が男より太く、視覚・聴覚の連携がいいからだとされる。)だから、順序として、先に文字から入るのは、言葉習得の生理に反し、学習効率が悪いのである。
それだけではない、視覚優先は、正しい発音の習得を妨げる。例えば、“This is a pen.”は、決して、並ぶ単語の通りの“ジス・イズ・ア・ペン”ではない。
なるべく実際に即して書けば、“シィスィザ・ペン”であろうか。
ローマ字のヘボン式の“ヘボン”は、Hepburn であるが、“ヘップバーン” よりも“ヘボン”の方が耳から聞いた感じに近い。“メリケン波止場”の“メリケン”も american の耳英語をそのまま表記したものである。
さらに大事なことは、目で見た単語のひとつひとつの正しく発音されても、文節ごとのリズムと抑揚、その連なりによる全体の流れが英語的になっていないと通じないし、聞き取れないことである。一方的に話すには、知っている単語だけ並べればできるが会話は、相手の言うことが聞き取れないことにはどうしようもない。
会話の要諦は、絶対に聴覚優先である。聞き取れさえすれば、それを反復できるのは、赤子が言葉を覚えるのと同じである。
一端、頭に視覚的に日本語をつくり、それを英語に翻訳する脳回路のある限り、流暢にはならない。日本語を一切想起せず、いきなり英語の出てくる回路をつくらなければ、決して一線を越えることはできない。つっかえや、言いよどみも英語にならないといけないのである。
ところが、学校英語は、以上のように、間違った方向での“非英語回路”を植えつけてしまい、いざというときに聞き取れず、通じず、臆病になり、ますます、その回路が強固になってゆき、英語恐怖バリアを植え付けてしまう。英語教育が英語できなくしているのである。
英語を必要としない環境
もうひとつの大きな問題は、必要性。必要性がないから覚えられないのである。
外国語習得の一番手っ取り早い方法はその国の言葉を使わなければ生活できない、一日も生きてゆけない状況に身を置くことである。
ずいぶん昔のことであるが、香港やタイのバンコックの観光地で、まだいたいけな子供たちが達者な英語でみやげ物を売りつけに群がってきた。
今のバングラデッシュやフィリピンなどもそうではないか。生きるための必死の英語である。
最近経験したマレーシアの中国人社会では、子供たちがみな英語と中国語を自在に使いこなしていた。そういう生きる環境なのである。
日本の学校で、10年間も間延びして的はずれの学習をするよりも、一年でも現地で生活する方が、はるかにましであろう。 水泳が水の中に入らぬ限り絶対覚えられないように、会話言語はネイティブの海の中でしか、真の習得はできない。
だが、日本には、そんな必要性や環境がない。日本人の大多数は、生涯日本語だけでなんら困ることはない。片田舎に尋ねてきた外国人に、英語でなど応対してやる必要はないし、日本にいて日本語を使うべきは、至極当然で、世界のどこに行ってもそれは同じである。
韓国の人は、日本人より、ずっと英語ができる印象があるが、韓国はその国の規模からして世界に市場を求めなければならない、背に腹はかえられない事情があり、国をあげて英語化に取り組んでいて、国民一人ひとりの意気込みも違う。生きるための英語なのである。
人口一億の日本は、たとえガラパゴスと言われようとも、大方の物品も生活も国内だけの市場が成り立つ。この大多数がさほどの必要性を感じない状況で、義務教育からの英語がうまく浸透するはずがない。必要な者にだけ、特別コースを設け、徹底して教育したらいいのである。
今後の英語教育
こうした中、小学校での英語教育が始まったが、これは大いに議論の要するところである。
というのは、脳の言語野における回路は、大体10歳頃までに出来上がり、母語が定着し、これはもう一生ついてまわるからである。 日本人である限り、ちゃんとした日本語の使えぬ限り、いかに英語ペラペラ゚になろうとも何の意味もない。
ペラペラ度はネイティブスピーカーには絶対かなわぬことであるし、一方、日本人として日本語で話せる以上のことを英語で話せる筈もないからである。
ただ、改めて思うに、習ったものの使えぬは大いに無駄であるとしても、学校での英語教育は果たして、単なる会話教育でいいものかどうか。
教育の目的は国民として必要な基本知識を通じて人間を創り上げることであろう。英会話は、パソコンと同じで、所詮、ツールである。そのツールを使って、何を伝えるかの、その“何”の中身こそ肝心である。
一方、これからの世界を相手にして行くに、そのツールもまた練磨しなければならないのは言うまでもない。