le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire
化粧品はこれでいいのか
化粧は何のためにするか
朝、ごみ捨てに行って、すれちがった奥さんに挨拶され、はて?誰であったかと一瞬とまどうことがある。
普段見ている化粧顔と、まだその化粧をしていない“すっぴん”顔とがあまりに違っていて、とっさには見分けがつかないのである。
ここで思うのであるが、そもそも女性は何故化粧をするのであろうか。誰のためかはさておいて、それは、少女期を過ぎて、すでに“老い”の始まるに抗して、できる限りそれを隠し、より若く見せるためであろう。
ただ、それが、かように素顔を加工して日中の光に映える“くっきり顔”をつくることでいいのであろうか。もしそうであれば、化粧はすればするほど、素顔と化粧顔との落差を大きくし、やがては自分ではない自分をつくるものとなってしまうのではないか。
化粧が、役者の役づくり、禿げを隠すかつら、あるいは上げ底靴のように“fake”の手段になっていいものかどうか。
化粧品会社としては、化粧品がそういう、変化(へんげ)のための、一度したらやめられない麻薬のようになってくれればこんなに都合のいいことはないのだが~。
あるべき化粧品
だが、化粧をする側にとって果たしてそれでいいのか。違うのではないか。
理想の化粧品のありとすれば、その究極に目指すべきは、老いの進行に対して、できる 限り化粧をしなくてもいい肌をつくる化粧品ではないか。
それは、売る側としては決して受け容れることのできない方向であろう。
商売において、何度もリピートしてもらうは必須の要件であり、そのつど“リセット”する必要のある化粧品を造らざるを得ない。
化粧品の新傾向
この状況の中、ひとつの新しい方向のでてきてはいる。
化粧のしくみの基本は、foundation とそれに乗せる色彩あるいは陰影であろうか。その相補性と“乗り”の具合が化粧品それぞれの特色であり、リピートの鍵もそこにある。
だが、実は、このしくみにこそ、化粧の退行的循環を作りだす罠がある。
foundation というのは、肌理を埋める“とのこ”や、キャンバスの下塗りと同じで、常に呼吸をしている肌の機能を封殺しその老化を加速させるのである。
ただでさえ、老いは細胞ひとつひとつの保水率を低下させるので、常に新陳代謝を促し潤いを外から補ってやらねばならぬが、その作用も妨げる。
そこで、この foundation に頼らない、脱foundation あるいは、foundationの成分を根本的に変える新しい兆しのでてきてはいる。