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脳死問題の何が問題か

 脳死は人の死であるとし、その脳死状態の人からは、本人の生前承諾(及び遺族の承諾)があれば臓器摘出を認めるとする法律(臓器移植法)が、子供など本人の生前承諾を得がたい場合にまで援用されることが国会で決まった(平成22年7月16日)。

 

  “脳死は人の死”であるかどうかが再考されたわけではなく、法律適用の範囲が拡大されたに過ぎないが、そもそも、法律で言うところの『脳死』とは何か、その『脳死』を扱う法律の何が問題か考えてみたい。

1.法律が前提とするのは

・死んだ人間からであれば、臓器を取り出すことは許される、

・『脳死』は人の死である、

・だから『脳死』状態の人から臓器を取り出すのは問題ない、

 

という考え方である。

 

  一見全うなこの考え方にはカラクリがある。まず、臓器の持ち主が死んでいるのだから許されるとされる、その臓器も死んでいるのであろうか。 

 

  どっこい、生きているから摘出する意味があるのであってその臓器は死んではいない。

 

  死んでいる人(肉体)から取り出された臓器が、実は死んではいない、というカラクリ。

このカラクリ を成立させるために持ち出されたのが、『脳死』というトリックである。

人間の“死”に、敢えて『脳死』というトリックを持ち込む恣意性がそこにある。

2.その恣意性の背景は何か

 

  それは、医療技術(ソフト)市場における需要・供給マッチング圧力である。

 

  具体的には、ソフトを提供する側(病院)と受ける側(患者)双方からの圧力であるが、肝心のハード(臓器)が得がたく、その道を拓くものとして持ち出されたのが『脳死』トリックである。

 

  医学の進歩は、単に人の寿命を延ばしただけでなく、人の命のあらゆる局面において新たな力を与え、死への抵抗を後押しし、一部臓器の不全があっても、どこまでも生かしめることが可能になってきた。

 

  一方、たとえば、事故により脳に損傷を受けたような場合でも、人為的に心臓だけは動かし続けるような蘇生技術、また、臓器を生きたまま取り出す技術も進歩した。

  

  その結果、これまで臓器移植など思いもよらなかったのが、俄然、臓器さえあれば“助かる”という新たな状況が生まれ、ここに、移植の需要と供給を結びつける技術手続き正当化の論理が必要となり、『脳死』が浮上した。 

 

 つまり、まず、臓器移植があって、その手段として『脳死』は考えられたのである。

3.だが、そもそも、この“脳死”とは何か

  ただ、“死”ではなく、敢えて、『脳死』というからには、人の死にはいろいろあって、そのひとつということなのか。死に方にはいろいろあろうが、死んだ状態にも種類があるというのか。

 

  そうではない。死は死である。『脳死』は、あくまで、脳の死である。脳という人の肉体の一部の崩壊を指すのであって、その脳をもつ人間一個の死ではない。

 

  その一部の死をもって全体の死とみなそうと言うのが、『脳死』を人の死とする考えである。

4.では、その、『脳死』を人の死とする論拠は何か

  人の肉体が死に向かうとき、全体が一挙に崩壊するのではなく、肉体の部位ごとにタイムラグがあるが、脳部分が死んだ段階から回復することはありえず、肉体全体の死への進行は不可逆であり、脳死の段階で、人の死とみなすことができる、という論理である。

 

  どうせ死ぬのだから、わずかのタイムラグは無視して『脳死』を人の「死」とみなそう、というものである。

 

  しかし、考えてみれば、人間、生まれてすぐに死に向かっているのであって、人の一生はその死に向かっての不可逆な過程である。その最後の段階だけは、臓器移植を願う人のためはしょってもいいのでは、というわけである。

5.ところで、その、脳自体の死はどうやってわかるのであろうか

  人間の肉体は、60兆もの細胞で構成されていて、人が死ぬとは、その細胞のひとつひとつが死ぬことで、それは脳においても同様であり、そのような細胞レベルの死の瞬間というのは特定できない、つまり、脳の死の瞬間というのはわからないのである。『脳死』という極めて唯物的な考え方が、実は、その物の論理では判定できないのである。

 

  ひとえに、これは、臓器移植という医療技術の線上に形成された“アイデア”に過ぎない。

6.以上の考え方の反論として

  心臓であれ、肺であれ、一個の臓器のあれば一人の命が救われるという状況もこれまた、看過できぬことであり、その悲痛な願いを無碍に却下していいのか、という立場も当然あるであろう。

 

  が、しかし今、対外受精やその際の他者の精子や卵子、果ては子宮の利用など、生命の始まりにおける人為操作について多くの議論のあるように、その生命の終焉についてもそれ以上に、どこまで人為が許されるのか、議論は尽くされねばならず、それは、なかなか解を得難い問題である。

 この問題の解の得難いのは、法律でいうところの“死”あるいは、『脳死』は、どこまでも生物学的な“死”であるが、“死”は、一方で優れて哲学的、宗教学的・倫理学的なテーマでもあるからである。

 

  時に、心理学、社会学、人類学の対象でもある。人の“死”は、決して生物学的現象としてだけでは片付けられない、“わからない”ことがたくさんある。

 

  法律の背景たる法思想は、当然ながら、その“わからない”ことの多様な人知の成果を踏まえるべきものではないか。