le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

占い・霊感の虚構について

 

    古来から、占い、呪術・祈祷、また、祟りなどは、神仏や天災、土俗信仰などと

      結びつき、政治・ 社会・暮らしに大きく入り込み歴史的な意味を持ってはいるが、

     それはさておいて、今、巷間に流布している占い・霊感の類について一考してみる。

§姓名判断

 

 これは字画をもつ漢字特有なもので、一筆書きのようなアルファベットには適用し難い。タイやアラビアの唐草文様のような文字ではさらに難しい。

 

  一方、同じ漢字圏でも、中国や朝鮮半島(*)では姓名判断など聞かないし、現代中国の簡体字など対応する日本の漢字とはかなり異なり、同じ判断は使えない。

 

  日本の漢字も、時代とともに字体・字画は変遷し、戦後の新字体にはかなり変更が加えられている。

 

  その変更が、例えば、遙が遥、鷗が鴎など、当用漢字ではない旧字体にまで勝手に援用されている例もある。つまり、もっとも肝心な字画そのものが時と所によりゆらいでいる。 

 

  (*)ハングルから漢字は排除されたが姓名にだけ残る。このように、姓名判断には、いつ、どこでも、どんな対象にも通用するという普遍性がないのである。地域、対象の限定された運勢など、もはや運勢ではない。

§干支・星座

 姓名は人間が他者と区別するために自ら選択する記号であるが、その選択の余地がない、いわば与えられる出生の“時”を対象とするのが干支・星座占いである。

 

  干支は生まれた「年」により星座はほぼ「月」により人間のタイプが決まるとされる。

 

  いずれも、人間が12種類に分類されてしまう(なぜ12種類なのであろうか)。

人間には確かにタイプというものはある。 しかし、同じタイプであってもその中身は多岐にわたる。

 

  ジキル=ハイドのように、一人の人間が相反する性格を持っていたり、他人には伺い知れぬ隠れた面があったり同じタイプであっても発現の仕方がまったく異なっていたり、さらには、他人の目に映る性格と自身の自覚が正反対だったり、おかれる環境によって変質することもある。 

 

  かように、タイプと言われているものは、細部では千差万別の人間を最小公倍数によって括る類型に過ぎない。

 

  そもそも、男と女の出会い自体、そしてそれぞれから継承する遺伝子の組み合わせも、あら ゆるパターンがあるのに、それと関係なく、年により、月により、全く同じタイプが生まれるなど、 ありうる筈がない。

 

   それに、星座では生年は無視されて月単位の12タイプになるのが、干支では生まれ月が無視され、ある年生まれはひと括りに同じ型にされるという、互いに矛盾する関係になる。

§誕生日・暦

                                              

 「誕生日大全」(右)なる、即ち、誕生日ごとに366通りのタイプ・運勢を書き分けた占い書がある。この日替わりメニュは星座とも、干支とも矛盾することになる。

  「四柱推命」に至っては生まれ時刻まで問題とする。月であれ、日であれ、時刻であれ、それらは、人が生活の便宜のため、地球の自転・公転から計算して人為的に区切ったものに過ぎず、自然の時間というのは、区切りなどない連続したものである。

 

  それに、丸い地球の上では、場所により同じ暦日でも最大で、ほぼ一日分のずれがある。誕生日が同じでも、絶対時間ではほぼ一日違いのこともあり、その逆、1秒の違いで、違う誕生日になる場合もある。

 

  そのずれや違いがちょうどこれら人為的区分の境目にある場合、どっちに転ぶのかといういい加減さがあり、そもそも現状の暦はグリニッチという人為的な緯度を基準とした相対的なもので、そこに固定的なタイプや運勢を結びつける無意味が見えてくる。

 

  さらに言えば、グレゴリオ暦はうるう調整が必要なように、地球の運動周期を完璧に按分したものではなく、一方、地球の自転・公転周期自体わずかずつずれていて、いつも同じ一年というわけではない。 

 

  人為的な調整のサマータイムや、一年が354日のイスラム暦ではどうなるのであろうか。

 

  さように、人の作った、しかも、いささかほころびのある区分毎に何故、全能の神の領分たる運命が決められるというのか。

§風水・陰陽道

 

 時間には区切りも絶対基準もないように、方角というのも、球体の地球の上ではすべて相対的なものでしかない。

 

  ある地点で北の方角は、その延長線ではいつか南に転じてしまうごとくであるが、その方角を占いの素材のひとつとする風水や陰陽道など、もとより、エリア限定のお得意様御用達占いでしかない。

 

  地理学や天文学、また儒教の要素なども取り込み、専門の学者も登場して、ひとつの体系をなすに至り、中世には、政事にかかわるまでに発展したが、所詮、当たるも八卦、当たらぬも八卦の世界である。

§血液型

 

 姓名や誕生の時、また方角など、いわば外界とのインターフェイスという意味においてなにとなく運を暗示するものに結びつけやすいが、肉体の一形質たる血液型による性格類型は、いったい何を手がかりに言い出したのであろうか。

 

  血液が心臓や脳になくてはならぬ要素であることからの連想であろうが、血液型と性格の相関性など、科学的根拠はまったくない。

 

  当たる当たらないの世界の占いには科学的根拠などなくてもいいが、血液型という科学的分析と非科学的事象との因果はきちんと説明されなければならない。

 

 血液型には、ABO式以外にもたくさんあって、その組み合わせは無数になるという。この血液型性格判断がもてはやされているのは、ほとんど日本だけというのもどういうことであろうか。

§手相・観相

 手相や観相は、肉体の形質を素材とする点で血液型に似るが、ただ、判定者の介在するところが異なり、その判定者がどれもうさんくさい。

 

  いかな霊能者の判定であろうとも、そのお告げは、結局は手や顔をひとつの契機として利用するだけで、それとは関係なく用意された運勢パターンを被験者の置かれた状況、外見や表情反応を見ながら、その組み合わせを適用するに過ぎない。

 

  手のひらの皺や顔の特徴などは、未来の予兆ではなく、むしろある運命のもとに生きてきた結果と見るべきであろう。

§人間の言葉

 さて、どのような形をとるにせよ、運勢、運命あるいは性格分類、タイプ、行動の選択肢などすべて言葉によって提示されるが、それが霊能者自身の判定であれ、神のお告げであれ、星座や血液型のように由来の知れぬものであれ、言葉というのは、人間の人間たる所以の最たるものである。

 

  つまり、あらゆる御託宣は、決して神の領分のものではなく、すべて誰か人間が考えて作らない限り、提示できないものなのである。

 

  そう思料するなら、占い、霊感、予言すべて、あらかじめ人為的にお膳立てされた運勢メニュの選択に過ぎないことに気づくであろう。

§当たる・当たらない

 それでもなお、多くの人は『その通りかもしれないが、私は信じる。なぜなら、それらの示すものは、当たっているから』と、言うに違いない。

 

  そう、いみじくも、たまたま「当たっている」、あるいは、そう思い込み、囚われているに過ぎないのである。人間の心理として、十にひとつでも思い当たるふしがあれば、当たっているそのひとつだけがクローズアップされ、他の言説は捨象されてしまい、占いはセットで是認されてしまう。

 

  十にひとつでなくも、白か黒かいう5割の確率でも、それは、「丁か半か」の世界であり、まったくあてにならぬと同じである。

§当たる・当たらない

 それでもなお、多くの人は『その通りかもしれないが、私は信じる。なぜなら、それらの示すものは、当たっているから』と、言うに違いない。

 

  そう、いみじくも、たまたま「当たっている」、あるいは、そう思い込み、囚われているに過ぎないのである。人間の心理として、十にひとつでも思い当たるふしがあれば、当たっているそのひとつだけがクローズアップされ、他の言説は捨象されてしまい、占いはセットで是認されてしまう。

 

  十にひとつでなくも、白か黒かいう5割の確率でも、それは、「丁か半か」の世界であり、まったくあてにならぬと同じである。

§スピリチュアルブーム

 昨今の「スピリチュアル」(霊感、心霊)ブームは、そう目くじらたてて議論するほどの内容もまた、そう深遠な背景あるいは社会的問題性をはらむものでもないが、いかにももっともらしい言説で人心を収攬し、それが公共の電波に乗っているのを問題なしとしない。

 

  ただ、これも、平和な時代のある意味、心理的ゆとりと、一方で、高度成長のゆきづまりによる先の見えぬ不安のもたらす一時的盛行現象ではあろう。それを信ずるのも、いくらかの期待はもっても、“現実は現実”の自覚の上での慰み程度、というのが実相ではないか。

宝くじが一時の夢を買うように、占い・霊感の類はすべていささかの期待をもって、見えぬ世界を覗かせてもらうようなものではあるが、それにしても、人は何故、よく考えてみればお遊びに過ぎない、何の根拠もない、このような人の作り上げた虚構にいとも簡単に乗ってしまうのであろうか。

 

  ここにもやはり、自分だけは救われたい、いい目に合いたい、そのために何かに頼りたい、という、人がどこまでも一人であることの姿がある。