le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

ライトアップの無粋について

フランスから、イタリアから~

“原宿シャンゼリゼ” なる企画があった。 冬のパリはシャンゼリゼのマロニエ並木の電飾(右)を真似たものである。その原宿を追っかけたと思われるのが、大阪は御堂筋のそれ。

そして今や、日本中に銀座通りがあるごとく、冬の夜空の何とか通りで、同じような豆電球の明滅があるのに違いない。

 

  パリの冬は暗く長い。その陰鬱な空の下、オブジェのような落葉したマロニエには豆電球もいいかもしれないが、光溢れる日本の冬、それに表参道(*1)、御堂筋(*2)、どちらも並木の冬枯れの樹形は美しく、何故にあの無粋な電飾が要るのか。街の明かりだけで充分ではないか。(*1)写真下左。このケヤキの緑と緩やか坂の広い舗道がいい。(*2)写真下右。大丸前のイチョウ並木。

 仕事場が御堂筋沿いにあり、その昼間の電飾の残骸を目にすることがよくあったのであるが目を凝らしてみると、コードをぐるぐる巻きにされ、蓑虫のような電球が無数に下がり、痛ましい限りの樹木のさまであった。


   そのような舞台裏を、もっと大仕掛けに見せつけられるのが、“神戸ルミナリエ”である。 これはイタリアからの借り物であるが、最初の年の初日に見に行ってその規模の大きさと色彩の華麗に、あっという驚きは確かにあった。

 

 ただ、それは最初の瞬間だけであった。大体、光の芸術というのは、花火のように一瞬のものであってこそ生きるものであって、その一瞬を過ぎてなお持続すれば、感嘆は加速度的に薄らいでゆく。

 

 そして、そのいっ時の夜景の犠牲になる昼間の光景、それは、ビル工事現場の足場そのものであった。

 

  昼間のあばたは我慢して人工の光による夜の厚化粧だけみてくれというのであろうか。ちょうど、これから夜の職場に向かうホステスが、電車の中で、まるで周りに誰もいなかのごとく無視して化粧をするに似ている。

この日本の風情をこわす人為

 

  この光の化粧をさらにエスカレートさせたのが、このところネコも杓子もやりだした、

”ライトアップ”というやつである。

 

  橋や電波塔など現代建築物で、夜にその存在を示す必要のあるものはまだしも、何百年、千年の昼夜を閲してきた、古色麗しい寺社古刹、あるいはお城、はたまた、名所の桜まで、何故、あのような強力なサーチライトで下から照らし、お化けのようにさらさなければならないのか。 

 

  月影という古語がある。これは、影ではなく、その影と一体の光の方を指す。朧な月明かりの生み出す、かすかな影の縁取りによって浮き上がる形の妙を示唆する言葉ではないか。

 

  せっかくの闇なれば、その闇を享受するには、せいぜい月明かり程度がいいのである。もし、毎日に、夜がなく、昼だけだったとしたら、どうなるであろうか。 もう、神経の休まることなく、人工的にでも闇をつくらねばならないであろう。

 

  つまり、闇あってこその光であり、自然の与えてくれるその光と闇の交代をなぜ楽しもうとせず、人工の光で打ち消そうとするのか。

 

  ところで、このライトアップは、日本語でなんと言うのか。適当な言葉が浮かばない。大体、日本語にならない発想というのは、胡散臭い。

 

  もっとも、light up という英語も、言いたい中身は多分通じない。

強いて訳せば、 illuminating by the beam of light であろうか。