le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

早すぎた出世~山岡久修

大学時代

   

  身長は179㎝と言っていたが、細身の体に、いつもやや上向きの面高な顔が乗っていて、もっと高く見えた。それにでかい声。また、何故、フランス語科に入ってきたのか始めからフランス語はよくできた。等々、やはり近づきがたい男であった。(私は本質的に語学は苦手で、できるやつは敬遠気味だ。)

 

  彼との契機はなんとなくできあがった気の合うフレッシュ8人(うち女子3人)のグループに何故かダブリ組の私もいたことだ。

 

  ある時、講義の合間のキャンパスにできていた談笑の輪にひとり飛び抜けた山岡が、“誰かグレゴリアンいらないかな”と独り言のように言った。レコードを分けようということだが誰も反応しなかった中、私は、内心“おやっ?”と思った。

 

  この威勢のいい男のどこに、そんな古風な音楽世界のあるのか想像できなかったのである。カトリックの彼には多分に宗教世界だったのかもしれないが、いずれにせよ、彼との交わりはそこからであったと思う。

 

  中島もそうであったが、山岡もいわゆる“親友”というのには当たらないかもしれない。実際、臨時の休講や帰りの途中下車などで喫茶店にしけこみ、何時間もべったり話し込んだりした相手はこの二人ではなかった。

 

  中島とは、大人になる時、あるいは社会に出るとき、誰もが一度は通過する理想主義や正義への情熱を通じての自他の相克を、また、山岡とは、純粋に音楽における古典の美への心酔を、それぞれ共有した君子の交わりと言っていい。

 

  私が、音楽というものに、何の衒いも背伸びもなく、また、誰にも開陳せずに一人沈潜する幸福を見いだしたのは大学入学前後のことであった。それにつながるどんな情報にもピンと耳がたつ、そんなところに山岡は登場したのである。

 

  家庭教師のアルバイト料を貯め、秋葉原に日参、取り揃え仕上げた我がオーディオの城への最初の客は山岡であった。オーディオに関しては彼の方が先輩であった。私も、下落合の彼の家によばれた。いつも品のいい母上が、食事を用意してくれた。男2人が黙ってレコード聴いているなど、さまにならぬと気遣ってくれたのであろう。てんぷらのおいしかったのを思い出す。

 

  ひとつ触れておくべきは、彼の書棚に並んでいた本である。「十八史略全集」などがびっしり詰まっていた。私には、これもはっとする発見であったが、敢えて話題にはしなかった。同じ驚きは、彼が卒論のテーマに「ユイスマンス」を選んだと知ったときにもあった。いずれも、外からはうかがい知れぬ彼の内面を思わせるものであった。

西武時代

 

  彼は途中、サンケイスカラシップに選ばれてパリに一年遊学、卒業は私より1年遅れた。就職は、大学に募集のあった「昭和電工」に受かっていたが、入ったのは私の会社と同業の「西武百貨店」であった。求人はなかったはずで、彼は自分で売り込み、開拓したと思われる。昭和電工は公害問題に苦しんでいた頃で、西武はそれから大きく飛躍した会社であり、先見の明はあった。

 

  互いの就職で、それまでのようなつきあいはなくなったが、通勤が同じ西武新宿線で、たまに乗り換えの高田馬場駅でひょっこり会うことはあった。きつい会社だともらしていた。

 

  私は入社8年で大阪転勤になり、それからは、ほとんど年賀状を交わすだけになった。

 

  一度、彼の方から大阪に来たことがある。彼が開発主導した八尾西武開店の時である。八尾まで出てこないかと連絡があり、お互い忙しい中、旧交を温めた。

 

  その後、彼の新たな動静を知ったのは、西武に3人の若い取締役誕生を報ずる新聞紙面においてだった。うち40代の2人は、30代で渋谷西武を成功させ、後に社長になる水野誠一・40歳と、山岡・43歳であった。

 

  この人事に堤清二の引きがあったのは間違いない。(水野はフジサンケイグループを起こした水野成夫の息子。堤の後妻は、元芸妓で成夫の養女:麻子。) そして、この引きこそ後の彼の失脚にもつながったと考えざるを得ない。

 

  この何ヶ月か後、会社の命をうけてわざわざ彼に会いに行ったことがある。酒の席で西武が話題になって、うっかりしゃべってしまい、感心され、そして、何か情報を取ってこいというのである。こんないやな仕事はなかった。

 

  当時、西武の本社は「サンシャイン60」にあった。それらしき部屋の入り口で、きょきょろしていたら、奥の方から「オーイ」という声があり、立ち上がった彼の姿を見た。

 

  普通、大会社の役員と言えば、まず、受付に行き、秘書を通じて面会というのが通常のステップである。西武のこのオープンさは、次々と清新な企画を打ち出し、話題を集めていた会社の勢いそのものとも言える。糸井重里を起用、「おいしい生活」など次々キャッチコピーをヒットさせ、「ロフト」の開発を手がけたのもこの頃であった。

 

  彼は、私の所望の組織図を気安くくれ、そして付け加えた。「うちは、組織図は日替わりで、後追いでつくるだけだ」と。大会社は、何か事を起こすには、まず組織図をつくる。それで、もう、仕事ができたような気になってしまうのである。

 

  取締役就任から4年後の1990年、水野が社長になったとき、彼は常務になる。

ここに至る時期はバブルの絶頂と重なる。物事の隆盛発展は、その同じ時期に崩壊の芽も萌しているものである。

 

  翌1991年、西武グルーフは、バブル崩壊とともにそれまでの拡大路線が行き詰まり、堤はグループ代表を辞任、相前後して西武商事部門の不祥事が発覚、また、イトマン事件との関連も噂された。これら事件と山岡の担当範囲がどこまで関連していたかは不明であるが、彼も、表向き不祥事連座の形で左遷の旅に出ることになった。

 

  沼津、静岡、浜松、錦糸町と部長に毛の生えた程度の役を周り、最後は福井にまで追いやられた。

 

  そして、北陸西武社長になってほどなく、住居としていた福井市内のホテルで頸を吊ったのが新聞に載った。週刊誌は、「週刊ダイヤモンド」が追っかけた程度であった。

 

  水野も1994年には西武を追われ、反・堤の和田繁明が社長になる。(水野は学習院初等科で同級だった鳩山由起夫との縁で、翌年、「新党さきがけ」の参議院議員に転じる)

 

  和田は早速「西武百貨店白書」なる、堤時代を総括する批判的改革計画を発表。単行本にまでして話題となった。その後、一時退いた後、破綻した「そごう」統合の時に返り咲き、「ミレニアムグループ」の総師となった。

  山岡が心底悩んだものが何かは、もとより知るべくもなく、また、実際に取締役としていかほどの責めを負うべきことがあったのかもわからないが、その早すぎた出世の故に、一大権力闘争に巻き込まれたのは確かである。

 

  その過程はバブルの生成と崩壊という時代の波に翻弄された栄光と挫折の階梯であり、その大波小波に渦をまく嫉妬と羨望の世界でもあった。嫉妬は決して女の専売ではない。いや、男の方が激しい。

 

  50に届かぬ齢での最期であったが、実は、この数年前に奥さんを亡くしていた。2人残された子供のその後は知らない。(2011.10.3)