le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

白金小景

国立自然教育園

 

  山手線目黒駅から目黒通りを白金台方向に300m、首都高速目黒線をくぐると、こんもりとした緑が目に入る。この高速と外苑西通りに挟まれたエリアをほぼ占める「国立自然教育園」(*)である。

 

  いつからか、外苑西通りは「プラチナ通り」とよばれ、“シロガネーゼ”など言う虚栄をくすぐる呼称の生まれ、案内本にも載るようになった白金であるが、この自然園だけは50年前と変わらぬたたずまいをみせている。

 

  東京の山手線内側に、これほどの自然と静寂のあるのを知れば誰も驚くに違いない。緑というだけなら、新宿御苑、上野公園、山手線外側でも、代々木公園、浜離宮などほかにもあるが、どこも庭園風人為の整いに、あるよそ行きの身構えを要求するに対し、ここには子供の頃虫取りの冒険に入り込んだ雑木林の、あの誘惑の空気がある。

   そして何よりも、いつ行っても森閑として、

時に誰にも会わぬこともあり、もし2人だけの

そぞろ歩きの時間を持ちたいと思うなら、

東京にこの森に勝るところはないのではと思う。 

 

 (*)江戸時代は高松藩松平頼重の下屋敷。大正年間には白金御料地。現在は国立科学博物館付属。広さ20万㎡。

出会い

 

  さて、話は、さような洗練とも自然ともほど遠い下町は深川木場、ある小さな婦人アパレル会社の朝の一室に転じる。

 

  初秋のある日、次シーズン営業戦略会議のため、本部担当と各店舗の店長、総勢20名ほどが集まっていた。店長はすべて女性。私は親会社からのオブザーバーとして出席していた。と言っても、事前に社長に提示した業績立て直しに向けた課題を現場でこなしてもらうための、お目付的な立場であった。

 

  ところが、あろうことか社長が急遽出られないことになり、私がその提示資料を説明するはめになった。

 

  仕方なく進行役を引き受け、さあ、始めようとしているところへ、一人が息せき切って入ってきた。ボーイッシュなヘアスタイルに上下黒、いかにもそれらしい出で立ちのチーフ・ デザイナーであった。私の存在など目に入らぬ風の登場に、やや出鼻をくじかれたが、その、ものおじせぬマイペースぶりから、これはこの女性がこの会議をまとめるキーマンになるなと直感、何食わぬ顔で先へ進めた。

 

  やはり、若い店長たちは主題と関係のない日頃の苦労と不満を述べるばかりで、そこを彼女がその都度本題に引き戻して、建設的な方向に引っ張ってくれた。

 

  この会社は、さる著名デザイナーとの合弁で、彼女はそのデザイナーが毎シーズン提示するスケッチについて、素材選び・細部の詰め・型紙への落とし込みという一連の物作り過程を統括する受け手側ディレクターの任にあった。わずかなサイズの違いなどが売上げを大きく左右するこの商売にあっては重要なポストであり、彼女も他社での経験を買われ、厚遇で中途採用されていた。その時48歳であったろうか。

 

  2時間ほどの会議を終え、いくつかの立ち話のかたまりができている中、男一人になってさてお昼をどうしようか、一瞬、書類を片付ける手を止めてぼんやりしていると、やはり立ち話中の彼女が、こちらを向いて「食事どうされますか」と訊いてくれた。

 

  連れていってくれたのは、会社からやや遠い、木場と門前仲町の中間くらいにある小さなしゃれた洋食屋であった。その会社からの距離に、私は、その機会が何か待たれていたような偶然ではないものを感じた。

 

  親会社から何か情報を得たいのか、また、今の彼女の立場での訴えたいことでもあるのか、あるいは、店長たちの不平不満からのただの息抜きか、いずれにせよ初対面でもあり、仕事の延長には違いなく、それ以下でも以上でもない、と思いつつも、こういう時、男は男たるを主張したいものだ。勘定は私が持った。

 

  それはそれとして話は弾んだ。彼女には話したいことが山ほどあったのだ。私にも現場情報を得る貴重な機会となった。

 

  しかし、彼女は悩んでいた。社長との考え方の違いは大きく、いくつかのシーズンを経ても深まるばかりであった。最終、社長の目指すものを押さえられず、結果、会社は大きく傾き、当然、彼女の立場も大きく揺ぎ、しばらくして彼女は会社を去り、私は現役最後の仕事として、親会社のトップ会議にこの会社の破綻処理を提案、その実行計画を置き土産に私も定年を迎えることになるのである。

 

  この私より一期上で同い年の社長には起死回生の策であったのだろうが、致命的なミスは、コンセプトの若返りであった。固定客商売においては客は年をとってゆくのにその逆を行ったわけである。デザイナー側も了承したものを止めることはできなかった。婦人服は、アームホールが5㎜きつくてももう売れないのである。

大阪で

 

  こういう社内会議とは別に、親会社・デザイナー・当会社の3者で構成する取締役会が3ヶ月に1度あり、また、私にはもうひとつ東京での担当子会社があったので、上京の機会は多く、彼女と会う機会をつくるのは容易であった。

 

  また、上得意を招待しての春夏と秋冬のコレクションがあり、それが大阪にも廻ってくるので、彼女が来阪する機会もあった。

 

  あるコレクションの時、彼女から大阪でのホテルをとって欲しいと言ってきた。社長たちと同じホテルに泊まるのがいやだからと。

  

  コレクションを見るのも担当としての仕事のひとつにはなるが、その時は敢えてショーの終わる頃を見計らって迎えに行った。

 

  ベルボーイを呼ばなくてもいいよう、彼女の荷物をもってあげて部屋に上がった。

ドアを開ける直前まではごく自然なアテンドで、正直何の計算もなかった。

 

  だが、男と女が密室にある、それだけでもう、どこからともなくフェロモンの湧いてくるもこれまた考えてみれば自然なことであった。

 

  高層の一室で生まれた、仕事とは別の新たな絆である。

早春の白金

 

  その後も上京の機会は多く、その新たな絆の成長はあったが、世に溢れる数々の物語と一般の、拙い言葉で語るほどでもない。何よりも、この白金の自然園のためにひとつだけエピゾードを加えておこう。

 

  彼女は山手線なら目黒駅が便利であった。それでいつからか、私も出張のときは目黒に泊まるようになり、駅すぐの、やや古いが落ち着いたホテルを定宿とした。

 

  当時、私はもう半ば窓際ながら、自分の行動を自分で決められるようなポジションにあり、出張のときは、必ず一泊できるように会議翌日の仕事を作るか、休みをいれるようにした。

 

  前夜の匂いがまだ残るような朝早くに、彼女はたいていパンと飲み物を抱えてやってきた。いつだったか「夕べはずいぶん遅かったのに、家族がまだ起きていてなんだか気恥ずかしかったわ…」と、いたずらっぽい笑みを見せたことがある。

 

  弾むおしゃべりのゆっくりした朝食をとって、そして「教育園」に行くのがいつものコースであった。

 

  ある日、彼女が巻きスカートで現れたことがあった。やはり我々よりほかに人がいるとも思えぬような静謐が森全体を覆っていた。少し歩いてから、陽の差し込む小さな広場を前にしたベンチのあって、腰を下ろした。

 

  話の途中、何気なく彼女の膝に手を置いた。ややあって、すくっと立ち上がった彼女は左右を入れ替った。私は瞬時にその意味を理解した。そして、スカートの布の重なりからそっと手を差し入れた。無音の空間に差す早春の陽の光とほんのかすかな吐息の、はるか頭上にチチと鳴く小鳥の声があった。 

  2人並んでちょうどいい小道を園の奥深くに進むと、

途中、小さな沼がある。私はこの自然そのままの水辺

が好きであった。そこでふと歩みを止めると、一歩後ろ

の彼女の体が、つと私に当たり、その弾みに、すっと

両腕を回してきた。背中に当たる、胸の膨らみの心地

よい弾力が今に残る。

 

  大都会の一隅にひっそりと鎮む自然のくれた挿話である。夢のようでもあるが。