le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

秘すれば花  

 

 

   世阿弥の『風姿花伝』にあるこの言葉にはいろいろな読み方のあるが、ここは

 

  ごく素直に解釈し、そして、男の視点から“女のエロス”について援用してみたい。

○ 秘すとは、どういうことか

 

  “秘す”とは、隠す、あからさまにしない、容易には見られないように奥深くしまい込む、要するに、他者に対し秘密にすることだ。  

 

  と言って、秘密は決して完全密封して外界から遮断することではない。いやむしろ見られることを期待しつつ、外の視線をさえぎることにより、露出価値を高めるところに意味があり、見えない磁力を発しながらも発信源を露にしないのが“秘密”である。  

 

  これ、まさに、“女のエロス”のあるべき発露の形ではないか。女として花ひらく最良の方法は、まずは、“秘める”ことであり、実は、これが、男を、それも自らにふさわしい男をとりこにする一番の近道なのである。 

 

  男は視覚の動物である。視覚刺激に弱く、とくに女の色気の露出に対しては性的反応をコントロールできない。この弱みは、往々にして、理性・感性を狂わせ、女性への選択眼を曇らせる。

 

  うわべだけからのいっ時の情熱は褪せやすく、瓦解しやすく、次なる刺激へと浮気してゆく。そういう間違いをさせないためにも、また、自らの価値を評価してもらうためにも、“秘す”ことが肝要なのである。 

 

  やや下世話になるが、すこし卑近なセクシャルな視点から“秘す”ことの実際を挙げてみよう。

いわゆる“コスプレ”というのは、演じる女性自身の思いはアニメにあるようなヒロイン気分を味わうことにあるのであろうが、演者が女性に限られるのは、やはり、男の視覚の求めるものだからである。

 

  そして、聖職者や教師、ナースやメイドと言った、卑猥の対極にある扮装が好まれるのは、男の露悪願望を掻き立てるからで、これは、通俗ながら“秘す”ことの効果の例であろう。

もう廃れてしまったが、“ストリップ”という見世物があった。男の視覚の弱みを利用した興行であるが、STRIP とは、裸にすること、脱がすことである。

 

  男が見たいとするのは裸であろうに、何故、わざわざ着せておいて脱がすのか。 それは、いきなりの裸というのは有り難味がなく、さして刺激的ではないからである。

 

  日常では隠されて見えない想像の世界が、少しずつ暴かれてゆく、そのプロセスにこそ男は興奮を覚えるのであり、金を払ってでも見たいと思うのである。

 

  日本の古典ポルノたる春画ではほとんどが着衣の状態で描かれているが、それも同じ効果を狙うものである。

プールや海水浴場、また競技体操やエアロビックダンスなどにおける布一枚の身体は細部がくっきりと露わになるにかかわらず、それ自体が日常次元に下降した“オープン”な見ものになっていることにおいて、そう男の目を惑わすものではない.

それが、全く同じ細部が見えてはならない場、例えば階段下や電車内などでほんの一瞬わずかでも見えた場合、男はどきっとし、そして、密かにその眼福を楽しむ。

 

  ミニスカートのはやったころ、サトウサンペイの『フジ三太郎』に、そういうひとこまがよく描かれたのは誰もがほくそ笑んで読めたからである。

 

  また、社会的地位のある人間による盗撮など、いったい何故そこまでしてと世間の訝るような事件のあるのも、ややゆがんだものながら同じ性心理として説明できる。

見えてはならないものを見たいとする心理である。

女性のジーンズパンツ姿で、ちょっとやそっとでは外れない強固な留め具の肉に食い込んだようなシルエットは、淫靡な視線を完全に拒否するもので、これは“秘す”を越えたものである。

  これに対し、スカートあるいはワンピースドレスのいでたちは、マリリン・モンローの地下鉄の風に裾を煽られるフィルム映像 (写真右*) が一世を風靡したように、見えないものを見せてくれる機会を秘めており、また、それを見る側にも神の手を期待させる点でやはりエロスを“秘す”ものである。

 

(*)映画「7年目の浮気」の一場面。このドレスは競売で3億7000万円で落札された。

もっとも隠すといっても、ゆるんだ体の線を隠すためであろうか、あの、おばさんスモックというのはどうもいただけない。

 

  幼稚園児がそのまま大人になった無性性、僧服の遮蔽感、また夜着のだらしなさがあって“秘す”ことにおいては逆効果である。

   

  やはり締めるべきところを締め、むしろ肉感を強調する方が、いかな体型、また、年齢であろうとも、女たるを主張する。絞ることによってできる襞やドレープは、見えない部分への想像を逞しくさせてくれる。これに対し、スカートあるいはワンピースドレスのいでたちは、マリリン・モンローの地下鉄の風に裾を煽られるフィルム映像 (写真右*) が一世を風靡したように、見えないものを見せてくれる機会を秘めており、また、それを見る側にも神の手を期待させる点でやはりエロスを“秘す”ものである。

 

(*)映画「7年目の浮気」の一場面。このドレスは競売で3億7000万円で落札された。

○最良のエロス~“清純” そして、“聡明”

  かように、身なりというものは、内なるエロスを包み、且つ、発散するものであるが、包まずしてそのまま魅力のヴェールとなるのが、表情やしゃべり方、所作や立ち居振る舞いである。

 

  だが、これはある意味、内面の表現でもあり、化粧や身なりのようには即席で身につくものでもない。無表情や冷たさ、また、無作法は、時に幻滅を生じ、拒否に作用してしまう。

 

  一方で、洗練されたそれは、秘めたエロスを増幅してくれる。 そういう他者に働きかける一定の意思性ではない、人そのものが“秘す”ことのヴェールとなるのが、“清純”そして、“聡明”である。

 

  いずれも、一見、エロスと対極的隔てをなすが故に、それを突破せんとする男の性の能動性を掻き立て、興奮度を高めるものである。

 

  “清純”は“処女性”によって象徴されるが、身体の成長の促す無意識の性の胎動をきたすときにあって、その醸すものをほのかな女の香りとして透過させるのである。  

 

  ただ、“処女性”というのは、言われるほどに実態のあるものでもない。 よく、その喪失がフィクションであれ告白であれ、大層に語られるが、実際には、いくらかの気分の変化のあるとしても、身体に何か特別の変化をきたすものでもなく、大人の世界へのあっけない通過儀式に過ぎない。(男の筆おろしも同様である。)  

 

  その処女性を根拠とした“清純”なるものも女性自身においては自覚されない、言ってみれば男の側が一方的に作り上げる多分に幻想なのであろう。 

 

  それでも、“清純”のステージは、美醜、気立てにかかわりなく、すべての女性に等しく訪れるものであり公平な出会いのチャンスを提供し幻想であるにしても初恋を生むエネルギーにはなっている。

 

  しかし、現代はそのせっかくのャンスも吹き飛ばしてしまうほどに、情報が溢れ、“清純”は早熟の中に埋没してしまう感があり、代わって10年遅れくらいで、“秘す”どころか、プレゼンにこれ努めねばならぬ、“婚活”とやらのステージが立ち現れている。 

 

  この“清純”も、言ってみれば大人への過程における身体上の表徴であるが故に、身体の成長変化に伴う退潮を免れ得ないが、“聡明”はもって生まれた内面性として、年齢や外見にかかわらず、エロスを包み、且つ、持続的に放射する最良のヴェールではなかろうか。 

 

  “清純”が、誰にも訪れるが一過性であるに対し、“聡明”は、生涯的であるもののそう誰にでも備わるものではない。

 

  いわゆる“いい女”というときの“いい”部分はもっぱらこの“聡明”に負うものであり必ずしもlooksを問題にするものではなく、内面の“聡明”の表れることが肝心である。

 

  その、ほのかな “聡明”のヴェールの奥に、想いのほかに淫靡な性の感度のあれば、男は誰も “女のよろこび” に奉仕したい衝動を覚えるのである。