le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

死とは何か

§ “死”という概念の、はたして実体があるのかないのか。 

  

①生きとし生けるもの、いつかは死ぬ。

  それは明日かも知れず、ずっと先かもしれないが、長くとも、たかだか100年ほどで  人は命尽きる。

 

 それを誰もが自明としているのは、現実にたくさんの例を知るからであって、そこか  ら死ぬとはどういう状況かもわかっている。

 

 肉体の生命活動が停止し、それまで、その活動をもって人としての存在を示してい  た一切の消滅することが、死ぬと言うことだと。

 

 

②だが、である。

 そのわかるとする“死ぬ”とは、生きていた状態が終わる、つまり生きているから側 から見た、“できごと”であって、実は、その先にある“死”そのものではない。

 

 我々は、その“できごと”の到来を、仮に“死”と呼んでいるのであって、今まで、ここ にあったものがなくなった、その知覚できない状態を指しているに過ぎない。

 

 

③人は五感をもって外界に触れ、思惟し、また、それを言葉によって抽象化し、脳 の  中で再構成してこの世界を把握する。 

 

  人が死ぬとは自分が生きているという実感も含め、そういう働きのすべてが停止 することであるから、その先の“死”は所詮、生きている人間には掴み得ないものなのである。その掴み得ないことを前提として我々は“死”とは何かの命題の端緒に立つ。

 

 

④では、人としての存在が消滅した後の“死”、その領域は“無”であろうか。

  “無”であれば、もはや、考えることも語ることもできない。

  無いものは無いのであるから。つまり、“死”は無いのである。

 

 

⑤だが、古今東西、あらゆる“死”にまつわる言説は、すべて“死”は決して“無”で  はなく、“死”が“在る”ことを前提として繰り広げられてきた。 

 

 言説だけではない、墓や葬式、さまざまな慰霊の行為などもみなその前提に立って  こそ意味あるものとなる。 

 

 

⑥その前提の由来は、人は死んでからもその肉体は死体としてあり、それはいずれ  元素に還元されるが、では、その肉体に依拠していた“人”という実態はどうなってしまうのかという発想をするところにある。

 

 

この発想から霊肉二元論が始まり、死後の世界が創造されるのである。

§この発想と、分子生物学における生死の考え方との隔たりを考えてみたい。

 

① 無性生殖の原始生物は、細胞分裂や接合、また、オートガミー(自家生殖)で増殖し、  そこに個体死の概念はあり得ない。

 

  有性生殖へ進化すると遺伝子の多様化による“種”の永続性が可能になり、その  一方、個体死を発生させる。

 

 

② 細胞レベルでの生命とは、外部から摂取したエネルギーを生体のエネルギーとし、また、   摂取した栄養物質を自らの生体に同化させ不要になった細胞を外部に排出する というシステムが機能している状態であり、個体死とはそのシステムの停止した状態をいう。

 

 

③ このように、生命体は細胞レベルでは不断の生死の交代という新陳代謝を行っていて、そこでは生と死は同次元の対概念であり、自死する蛋白質(アポトーシス)までも生成するように死は生命活動の一部なのである。

 

 

④ 人間の体細胞は、腸内細胞では3日、子宮では28日、赤血球では年に3回の周期  で更新され、体細胞全体では、7年ですべてが入れ替わる。

  つまり、不断の“死”によって、生命は維持されているのである。

 

 

⑤ さらに、遺伝子レベルで見た場合、DNAは生命を維持・継承する基本因子であるがその情報は、生殖時に子孫に受け渡され、個体死に関わらず生き続ける。

そこに“死”というものはなく、すくなくも人類の続く限り、連綿とDNAは生き続ける。

§ このような生命活動を行っている人が“死”の概念を抱くのは、それは、“自   意識”をもつことによるものとされる。   

① この自意識が何か、我々自身は生きているからそれは自明なのであるが、では、

 細胞レベル、遺伝子レベルの生命活動と、どこでどうつながるのか、やはりここに飛躍がある。肉体が7年ですべて入れ替わるのに、人の記憶による自己の一体性はどうやって維持継続されるのか。

 

 

② 細胞それ自体は、どこまでも物質であり、生殖細胞や脳神経細胞における情報のやりとりも 一種の化学生理作用であり、それらは我々自身の自分という存在の認識とどうつながるのか、その肝心なところはヴェールに包まれている。不思議としかいいようがない。 

 

 

③ この不明、不思議を解釈する手立てとして持ち出されるのが、自意識や記憶や人  としての一体性を、細胞レベル、遺伝子レベルの生死とは別次元でとらえようとする   “霊”であり“魂”である。そして、その解釈の延長線上に、“神”や悪魔が登場して霊魂を差配し、さらには宇宙創成にまで関わってくる。

 

 

④ 考えてみれば、神や仏はさておき、この『死とは何か』の命題がそもそも、“死”が  “在る”ことを前提としたものに他ならない。はたして“死”はあるのであろうか。

§ この『死とは何か』の命題は、真空問題と似ていないだろうか。

   ある種の錯覚が共通し ているような気がする。

① 完全な真空を作り出すのは不可能であって、必ずや、量子レベルでの何かが残る  という。この宇宙には、どんなものも通過してしまう放射が入り乱れており、例えばニュートリノは、地中1000mのスーパーカミオカンデにまで貫通するのであるから、それはそうであろう。

 

 

② 仮に、真空ができたとして、その真空とはいったい何だろうか。何もない空間とい  うのは、ありそうでいて、考えたらおかしくないか。 一定の空間という有限の存在があって、その中に“無”があることになるからである。

  逆から言えば、“無”に輪郭があるという奇妙なことになる。

 

③ 我々はまず、永久無限の時間・空間という場があって、そこに、神のわざであれ、   ビッグバンであれ、物質が生まれたと想定しがちであるが、相対性理論以後は、時空(時間・空間)と物質とは同時存在であって、必ずそこには重力が作用していると考えられている。

 

 

④ 時間・空間を切りはなし、根源的概念とするは、実は、身体感覚からくる錯覚であ  って、それは、肉体とは別次元の霊界を持ち出すのと似ていないか。

  つまり、霊界もそういう錯覚の産物ではないか。そして、“死”はまさに、その霊界の領域にあり、その霊界とは信じるか信じないかの世界である。

  思うに、霊界を信じるにせよ、信じないにせよ、“死”というものはわからないし、また、生きている限りわかり得ないから、我々は日々、心安らかに生きて行ける。

もし、“死”の世界が明らかになったら、怖くてそう安らかにはいかないであろう。  

 

  いずれにせよ、“死”は、生きている者の思考のおよぶ範囲を超えるものであり、それを恐れることはおろか、それについて考えたり、信じたり、悩んだり、まして、今を縛られたりするは、愚かなことである。

 

  もし、何か意味あるとすれば、それによって、よりよく生きるために今を律することであろうか。とにかく、“死”の一瞬前までは生きているのだから。

“死後”という考え方も、それは、死に行く本人にとって何の意味もなく、それは、偏に、残された者にとっての問題である。

 

  そういう意味では“死”を最大の後ろ盾とする宗教というやつはやっかいなものである。とくに“死後”の価値をつりあげて権威を高め、もっぱら葬式・祭祀宗教として自らの保身と繁栄を図る現代宗教とそれにぶら下がる寺社および僧侶・神官は、この“死”がわからないことを利用してというか、そのおかげで存在しているようなものである。

『語りえぬものについては、沈黙せねばならない』 (ウィトゲンシュタイン)