le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

人は時間を知覚できない

 

  朝寝坊をして、例えば入学試験や入社試験、また大事な約束などに遅れ、人生の貴重なチャンスを失することがある。これは時間での失敗の例である。

 

  一方、ニューヨークの9.11同時多発テロの際、実際にあった話であるが、たまたま出社時間に遅れたため生死の境に遭遇せずに済んだケースもある。

  

  また、そこまでの重大事ではない私事ながら、ロンドンのヒースローを飛び立つ時、夏時間からの切り替えの日だったのを忘れ、空港に着いてなにやら違うことに気がつき、大慌ての冷や汗をかいたことがある。

 

  かように、時間というのは人の生活と生命に深くかかわっている。だが、それほどに重要なことながら、人は実は時間を知覚する能力を持ち合わせていない。

 

  人は、他者や事物、また現象など様々な外界を五感によって把握し、その好悪や自らへの適否を判断する。その五感によって把握できない、例えば、細菌やウィールスなど極微のもの、反対に地球規模の現象や電磁波などは五感能力の延長としての機器によってその量や質を測定することはできる。

 

  しかし、その五感はおろか、どのような機器や工夫によっても捉えることのできない外界、それは時間である。人には時間を知覚する神経や器官がないのに、それに代わる何をもってしても時間を捉えるすべはないのである (空間も捉え難いのであるが、そこに物があることによって何となくわかるという感覚を得ることはできる)。(*1)

 (*1)時間を知覚する器官 : 体内時計という働きの知られているが、これも時間の経過を感知する機能ではない。

  脳の視交差上核にある時計細胞が太陽光の変化に反応して睡眠等の体内リズムを形成するもので、心臓や胃腸の働きと同様の自律的生理システムである。もし長期間、真っ暗な中に閉じ込められたら、そのシステムは働かずリズムは崩れ、時間の経過は全くわからなくなる。  

  いや、人の感覚に代わる時計という機器が時間を教えてくれるではないか、という指摘のあるかもしれない。

 

  だが、それは逆である。むしろ人は時間を知覚できないため、時計という機械に時間という形の約束事をインプットしているに過ぎない。その約束事を表示するものとして人は時計を考え出したのである。 

 

  時間が自らの生命活動とも関係する外界でありながら、それとのインターフェイス機能を持ち合せていない人は、体内時計をいわば外部化すべく、昼夜の交代およびその季節による変化の度合い、即ち太陽の位置(角度)、さらにその巡り来る周期を測定して記録する時計という機械を考え出したのである。

 

  太陽の位置は、地球の自転・公転及び地軸の傾きによって決まる。よって、時計によって明示されているものは、その自転公転から割り出した情報であり、それを我々は時間と呼んでいると言っていい。

 

  では、その時間という情報を提供してくれる一定の位置関係を保つ地球と太陽の運動に先行してその運動を律する時間法則というのがあるのであろうか。

 

  つまり、まず宇宙の摂理としての時間・空間があって、そこに太陽や地球が置かれたのであろうか。言い換えれば、人が地球と太陽を介して認識している時間というものに何か絶対性はあるのであろうか。

 

  もっと言えば、人が知覚できるできないに関わらず、果たして時間は“在る”ものなのか、というつまるところ時間は“実在”するのかどうかが、この論考の主題である。

 

  人が時間を知覚できないのではなく、そもそも時間なるものの知覚すべき実態がないのではないかという茫漠とした不思議感からの発想である。

 

「時刻」の不思議

 

  ここで現実に戻って、身近な事象から考えてみよう。

 

  我々は時間が“経つ”と言い、何時“きっかり”に始めると言う。つまり、時刻と時間に使い分けている。

  例えば、ラジオが伝えてくれる1時間ごとの時報は時刻、列車の出発・到着を表示するのは時刻表、授業の予定は時間表で、会社での勤務の拘束は時間によって示される。すべての者が同じ時刻・時間を共有することによって社会は秩序をもって動いてゆく。その地球標準はグリニッジにあるわけだ。

 

  この使い分けの示すのは、ある時刻から次なる時刻への経過、つまり、時刻の積算が時間ということになるが、時間はおおよその経過のわかっても、知覚ではとらえようがないその時刻とは何か。

 

  時刻とは平たく言えば“瞬間”であるが、これもまた読んで字のごとく“目のまたたき”ほどの“間隔”を意味している。

  それは時計時間の最小単位たる“秒”によって表現される間隔であるが、この1秒は地球の1公転(年)及び1自転(日)から割り出した数値であり、やはり一定量の経過を示している。

 

  人間の能力でも最速の選手はその1秒に10メートルは走るから、順位をつけるには100分の1秒まで測定する必要がある。でも人やせいぜい飛行機など人工物ならともかく、電子の世界となれば、1秒の1兆分の1(ピコ秒)、1000兆分の1(フェトム秒)と言った単位まで必要になる。しかしこれとて、それだけの経過を示すものには変わりない。(*2)

 (*2)時間の原単位 : 実際にはこの地球運動周期は一定ではなくブレがあるため、1秒はセシウム原子の振動数によって定義しているが、その周期から発想していることには変わりなく、このブレに合わせて時計の方を調節している。今、このセシウム時計よりさらに正確な「光格子時計」が日本から提案されている。

 このように考えてみると、時間の要素たる時刻はどこまで小さく刻んでみても際限がない。理屈としては無限に極小化してゆくことができる(*3)。だが、この思考は迷路にはまり込む。無限小はいくら足しても無限小であり、時刻の積算が時間にはならないからである。

(*3)時間の最小単位 : 観念上は無限であるが、量子力学の不確定性原理との関係(それ以下の時間では時空が定義できなくなる)で測定できる意味のある数値としてのプランク時間(5.39121×10の-44乗秒)が理論上の最小単位とされている。マックス・プランクの唱えたもので、物質についても、それ以上細分化できないプランク値がある。

時間は流れている?

 

  しかるに時間は流れている(と、我々には思える)。過去から未来に向かって一方向に流れていて、これを「時間の矢」という。

 

  その時間の矢における過去と未来の境界が「現在」であるが、時間の流れている限り、現在は到来したと同時に過去になり、一方、未来とは常に未だ到来していない時間である。

 

  過去も未来も今この瞬間には存在せず、その「今」も無限小ということになる。「今」を基準とすれば、「過去」は常にその「今」にはすでに存在せず(*4)、また、「未来」はいつまで経っても「今」ではない。

 

  しかも「今」は無限小でありながら、過去・現在・未来がつながっていて、それを「時間の矢」としてとらえるというのは、どういうことか。 

 

  無限小は言葉としてあっても、それを「量」として観念することはできない。

これをジャカールは「現在というのは、現実にある事物としては観察することはできない」と言っている

(*4)過去の観測 : 我々は光によって事象を観測することができる。地球外の星は、光が地球にまで届く時間だけ過去の状態を見ていることになる。例えば、太陽は8分19秒前、北極星は1000年前、アンドロメダは220万年前のそれを見ているわけである。過去を見ているとはなんとも不思議ではある。 

  この奇妙さはどう考えたらいいのか。どこか思考のプロセスがおかしいのではないか。

時間が流れていると言い、また、その流れが一方向に向いていると言うのは、時間がモノのように実在しているとするとらえ方ではないか。

  

 果たして時間は物があるように、“在る”のであろうか。そのような“流れ”のないのであれば、何故、そのように“時間の矢”の概念が生まれるのであろうか。

時間とは情報である?

 

  ここでもう一度我々が五感で把握する現実にかえり、時間とよく似た外界について考えてみよう。

 

  我々は“温度”や“色”が何であるかわかっている。わかるとは、どちらも感覚でそれがどのようなものか把握できるということであるが、温度というモノ、色というモノがあるわけではない。ある物質が温度なり色なりで表現されるところの状態を指示しているに過ぎない。

 

  もっと具体的に言えば、温度とは物質を構成する原子や分子の大集団がもつ乱雑な運動のエネルギーであって、それを人間の皮膚感覚神経が脳に伝え、熱い冷たいと感じるものである。

  もしただ一個の原子であれば、また、大集団であっても一定方向の運動であれば何も感じない。また、神経が麻痺していればやはり感じない。

 

  色も、種類があってそれぞれ名称のあるが、モノが受けて反射する電磁波の周波数の違いを網膜中の視細胞がとらえ、脳がそれを色情報として受容し概念化している。

  

  ただ、認識できる情報(周波数)は限られている。例えば、波長700ナノメートルは赤として認識する。人は赤外線や紫外線を色として感知できない。

 

  色として感知する脳機能のない動物にあっては色は存在しない。明度があるのみである。(モンシロチョウは紫外線を感知するという)。植物の光合成は太陽光のもっぱら赤い光に反応して行われることがわかっているが、これも人が虹の赤を感知するのとは、全く違う意味合いである。

 

  つまり、温度も色も、物質が発現する情報によって脳でつくられる概念であって、物理的に存在する実態ではない。

 

  時間もこれと同じではないか。人が時間として認知するのは、人自身も含めた物質や物質が形成する外界(やはり物質であるが)の変化によってであるが、ただその変化は温度や色のようには脳細胞は刺激を受容できず、変化情報を記憶あるいは記録したものから概念化し、それを時間と呼んでいるのである。時計はその情報を視覚的にわかるようにしたものだ。

 

  と、この時間=情報説が、現代の時間論の一応の落ち着いた結論のようではある。だがこれで、頭の中はすっきりするであろうか。

《時間=情報》説の不可解

 

  情報とは例えば、DNAが担うのは人がそれぞれ他者と異なる唯一の存在であることを示す個体識別の証拠となる遺伝情報であるが、その情報部分はDNAを構成する化学物質のうちの塩基の配列の仕方である。

 

  ここで、配列が情報となるが、塩基そのものはある分子構造をもった物質である。だが、時間が情報だと言うとき、その塩基に相当するものは存在しない。時間=情報説に何となく納得しても、ここが不可解なところである。

 

  実は、この存在の拠り所のない不可解さは「空間」についても通底するものがある。空間は、物質が存在する場として捉えられ、物質そのものではない。

 

  では、その物質の存在しない空間というのは考えられるのであろうか。いわゆる“真空”とはどういう状態なのであろう。最近その存在が確認されたヒッグス粒子は真空中でも存在するというが、粒子も物質である。その粒子と粒子の間の空間はどうなっているのであろう。

 

  “何もない”とは、すなわち“無”であって、“無”(という空間)が“ある”というのはそれ自体が矛盾している。無とは存在の否定なのだから。何もない空間という場に、時間だけが流れているというのも同様に矛盾している。

《出来事関係説》

 

  時間とは情報であるというとき、その情報の由来を問いたくなるのは、どこまでも空間的実在性にとらわれているからであって、それを断ち切るのが「出来事関係説」である。 《時間とは我々を取り巻く世界を、自分(たち)と出来事、あるいは出来事どうしの関係としてとらえるための道具として作り出した人為的な概念》であるとする考え方である。

 

  つまり、時間とは、単なる言葉としてある便宜上の概念に過ぎないというものである。

これも《時間=情報》説のひとつではあるが、確かに、出来事というのはモノと違って空間的実在性がなく、実在論へのこだわりを払拭してくれる。これは渡辺由文の唱えた説で、《出来事関係説》という言い方はまだどこにもなく、言及する人も少ないが一番すっきりしている。

物理学における時間

 

  物理学では、時間と空間は物理量としてこの宇宙の説明に使われている。すべての事象で成り立つ限り、実在性は問題とされない。

 

  ただ、アインシュタインによって時間と空間は一体のものとして捉えられ、日本語でも“時空”という言い方になった。ニュートン以来の、どこまでも均等に広がる空間と、常に一様に流れる時間を宇宙に所与の絶対条件として、そこに物質があるという考え方は否定されている。

 

  それは、特殊相対性理論の中で、唯一不変なのは光速度のみで、空間も時間も相対的なものであることが論証され、さらに重力場を加味した一般相対性理論で、時空は重力によって歪むことが解明された。平行線の交わることがあり、時間もこの宇宙のどこでも一様に流れているのではないということだ。

 

  さらにビッグバン理論が登場するに及んで、空間も時間もビッグバンによって始まったと説明される。ビッグバンは137億年前とされるが、そう言われると、では137億年以上前は何があったのかと問いたくなるが、その質問は無意味になる。

 

  なぜなら空間だけではなく、時間もそこから始まったからである。時間に始まりがあるというのはどうにもわかりにくい、というか、五感の次元も想像の限界も超えている。要するに時間も空間も宇宙の与件ではなく、物質と同時存在なのだ。物質が無ければ空間も時間も無いということだ。

 

  物理学の理論における時間は一般的に時間対称性《時間因数がプラスでもマイナスでも成り立つ》を持つが、感覚的「時間の矢」については、エントロピー増大の法則(*5)によって説明される。これは物理現象や出来事の生起する順序の不可逆性と同じことだという考え方である。

  (*5)《物質は乱雑性の低い(秩序のある)状態から、乱雑性の高い(秩序のない)状態へと変化し、その変化は不可逆である》という法則。熱力学第2法則とも言われる。

 

  割れたガラスが元の割れる前の状態には戻らないとか、コーヒーにミルクを混ぜると最終的に完全に混合した状態になり、それが元のミルクとコーヒーには分離しない、と言った例で説明される。

 2013.1.15 (未完)