le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

 戦争、平和、そしてまた戦争

戦争と平和は、互いに原因となり結果となる。

 

   戦争論は多く、孫子の『兵法』のように作戦の方法論として、また、クラウゼヴィッツの戦争論』のように政治外交の戦略論として展開されていて、そこでは戦争の発生そのものは歴史上の当たり前のことと前提されているが、その“当たり前”の中身について考えてみたい。

 (カントの 永遠平和のために』でも、その前提は変わらない。)

 

  戦争はある日突然始まるものではなく、ある一定の胚胎期間がある。それは、戦争の動機が醸成され、戦争を遂行できる力(軍隊と武器)を獲得する期間であり、その間の平和によって促進される。

 

  一方で、平和はそれが続くほどに、その有り難味は薄らぎ、人心は退屈し沈滞し、外からの脅威に対し無防備になって行く。やがて、すこしずつ肥大していった戦争の動機があらわになれば、人々は容易にその機運にのり戦意を昂揚させ臨戦モードは形成されてゆく。

 

  そして、戦争の悲惨を経験して、改めて平和の大切を知り、二度と戦争を起こすまいと誓いを立てる。 個々人の戦争反対の叫びや、崇高な平和運動のあってもなくても、人類は有史以来、この循環を繰り返してきている。

では、戦争の動機はどのようにして生まれるか。

 

 人と人の争いは、一所に二人以上が居合わせた時にその芽ができる。

ロビンソン・クルーソーであれば、争う相手がいないから、いつまでも平和でいられる。この状況を、部族なり、民族なりの集団に置き換えても同じで、一定エリア内で、それら集団の出会うことのなければ、抗争も戦争も起こりようがない。

 カントは、日本の鎖国について、列強の侵入を拒否することによって、争いを避け、平和を維持したとして評価している。

 

  人の集団は、農耕できる土地と水、そして適度な緑のあれば、必ずや成員が増加し、それに合わせて食糧は増産され、成長発展して行く。それは、社会を構成する人間の至極当然の姿であるが、その成長発展が一定限度を超えると、新たな領地の開拓が必要になってくる。

 

  あるエリア内で同様の成長する集団があれば、2つの集団はどこかで出会う場面がでてくる。それぞれ、まったく自然な道程を辿ってきた2つの平和集団が、互いの平和の維持発展のため、陣を取り合う、これが戦争の原型である。つまり平和の肥大が戦争を孕むのである。

 

  平和というのは、その基本は安全に食を獲得できることであり、領地の争いもつまるところ、この食の争いなのである。宗教、思想・信条、また民族性などの問題が戦争の名分に冠されることがあるが、それらは戦争遂行のための結束の旗印に過ぎずいかなる大義名分も、根底にあるのは、生きることの根幹たる“食”である。それは、平和の基本ベースでもある。

戦後日本

 

 日本は今、その食の満たされた平和を享受して65年にもなる。ある意味、今次大戦の敗戦のおかげとも言える平和であるが、これは有史以来の、戦争と平和の循環を断ち切ったということであろうか。

 

  いや、まだ、わずか65年。それに、この平和の間、日本は決して戦争と無縁であったわけではない。そもそも、戦後復興の大きな“テコ”になったのは朝鮮戦争であった。ヴェトナム戦争でも、米軍は沖縄ほか日本の基地を重要な突撃・補給ベースとして活用したし、それは湾岸戦争でも、アフガン侵攻でも、イラク攻撃でも同じである。

 

  イラクでは自衛隊も派遣された。その派遣された所が戦闘地域であるのないのと禅問答のあったが、同じイラク国内であって、米軍などの主力の支援とならず、いったい何になるというのか。武器を使用しないだけで、輜重部隊のようなものではないのか。憲法9条のおかげで戦闘しなかっただけで、まさに戦力の一部ではなかったのか。

 

  (だから、派遣すべきではなかったというのではなく、そこだけ他と切り離された平和なエリアなどありえないということである。もっとも、それと、そもそもブッシュがイラク戦争の名分とした大量破壊兵器の存在とアルカイダとの関係の否定されたということは、また、別の問題としてある。)

戦争も平和も生存の同じ根っこ

 

 いかに大義名分のあろうとも正義の戦争といわれようとも、その戦争の現場において戦う者、また、やられる市民にとって悲惨、残虐、また理不尽は言うをまたない。

 

  よって、戦争反対を叫ぶことに誰も異論はない。許される戦争などいうのはない。 だが、そう心から主張し念じるその人間も、自らの生活を、平和を、あるいは成長発展の維持を名分として、戦争遂行の一員にならざるを得ないのが戦争である。

 

  さような戦争メカニスムの本質は、歴史の記述に出てくることはなく、歴史は、戦争の原因も経緯も、もっぱら国際政治や外交の舞台に乗せられて、その舞台に登場する政治家や権力者の動静と責任権限の問題として語られる。

 

  だが、どのような舞台であれ、その舞台の観客たる、民衆・民族・国民の人間としての戦う本能の中に、全体を動かすもののあるを見逃すわけにいかない。

 

  生きること、もっと言えば、自らの幸福と安寧を得るために生き抜くことは社会という競争場裏での他者との戦いでもあり人は誰もその戦いの本能を生まれもっている。

人間は戦争が好き

 考えてみれば、小説やドラマなどあらゆるフィクション、歴史の記録、またそれらを映像化したものなどみな、そのモチーフとして、いかに多くの争いや戦闘、戦争が使われていることか。そして、人々はそれを楽しんでいることか。

 

  現代に花盛りのスポーツは生きた人間によるその戦闘だから見て楽しいのではないか。ゲームというやつも、これすべて戦いのシミュレーションであり、それに熱中するのは人の戦闘本能を満たしてくれるからではないか。人は戦争が好きなのである。

 

  この戦闘本能を進化論的に捉えてみると、「生物は個体としては極めて利己的で、決して他者を利するようには行動せず、また、個体としての進化の展望は持たず、種全体のためには働かない」という本質からして、敵をも含めた大きな立場で、平和のために奉じるというのは、本能行動としては考えられない。

 

  天下泰平、無事平穏の続けば、文化は爛熟、人心は弛緩、やがて世相の退廃へと向い、ただ、人口の増えるばかりとなるが、一旦緩急あれば、人々はその本能を覚醒させ、戦争というものに血湧き肉踊らせる。

 

  皮肉にも、戦争はまた文明を発展させ、幾多の英雄を育て、戦争の悲哀を描く数々の物語を生み、さまざまな芸術の副産物をもたらし疲弊した社会を更新してくれる。平和の有り難味も、戦争という歴史のシャッフルで獲得される。

だから、戦争は仕方のないものと言うのではない。

  かように冷厳な自覚のなければ戦争を回避して地球としての平和をもたらす方策も持てない。ただ反対と感傷的理想論では、戦争は防ぎ得ない。

 

  まずは、飢餓人口10億という現実を直視しなければいけない。そして、今の人口のままでも、世界中の人がすべて日本人並みの生活をしようと思えば地球が2個半、アメリカ人並みならば、5個必要であることを知らねばならない。

 

  戦争は、国と国との戦いから、地球という有限のパイの中、すでに持てるものと、いまだ持たざるものとの戦いへと変質してゆくであろう。