le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

出会い曼荼羅

予備校

 

  大学は最初、早稲田の「政経」に入ったが、経済学(*)にはいまひとつ気が乗らず、取り敢えず予備校を決めた。

 (*)「政経」は当時、政治・経済・新聞・自治行政とあって経済学科に入った。

 

  高田馬場駅前に、ほとんどスク-ルバスと言っていい大学まで往復15円の都営バスのターミナルがあって、いつも学生でごったがえしていたが、それを横目に線路沿いを2~3分の狭隘な傾斜地に立錐の余地なく校舎が建っていた。

 

  生徒数は2000人ほどか。「政経」の入試科目(英国社)に数Ⅰを加えるだけでいい東京外語に鞍替えすることにし、英語・国語コースを選んだ。

 

  毎週実力テストがあり、その都度100番くらいまでの名前と出身校名が張り出されたのであるが、英語・国語ともいつも私と順位を競う小癪な女性名があった。

 

  あるテストの日、いつもよく見かける女の子と同じ机になり、ちらっと見えた答案用紙にハッとした。紛れもなくあの名前「…緑」であった。こんなに可愛らしい小さな子であったかと、少なからず動揺し、目を転じると、ほんのかすかな会釈の視線がかえってきた、と思えた。「あの名前は私よ」と言っている風に見えた。

 

  それから数日後、6月の雨上がりの陽がきらきらと眩しい朝、駅前の雑踏を抜けるとき、ふと見ると彼女が並んで歩いていた。こういうのを天の配剤と言うのであろう、思わず「おはよう」と声をかけると、ピンとした背にポニーテールのしっぽを揺らしながら、はじけるような笑みがこぼれた。たちまちとりこになってしまった瞬間である。

出会いの不思議

 

  2年くらい続いたであろうか。その間の顛末はここでの趣意ではない。そこから始まる出会いの不思議というか、世の中案外狭いものだという話である。

 

  彼女は都立では珍しい(唯一ではないか)、駒場高校のピアノ科を出て東京芸大のピアノ科を目指していたが、一浪して楽理科に転じた。(ピアノというのはけっこう体力の要る楽器であり、何と言っても手指の大きさがものを言う。彼女は華奢に過ぎた。)

 

  そのピアノ科からはなんと、我がフランス語科にも一年後輩が入ってきて「…緑さんならよく知っているわ~」と言う。駒場では吉永小百合のお姉さんと同級であった由。色気は乏しいながら、私は、彼女の単なる語学屋ではない才能を見抜いていたが、卒業後、リヨンの大学に留学、帰国して日本大学に奉じ、フランス文学を講じている。

 

  小百合は私の3年後、早稲田の2部(夜間)に入った。私は外語に入ってからもしばらく早稲田の稲のマークの金ボタンの学生服をそのまま着ていた。

 

  もうすべて終わっていたある日、用あって荻窪の緑さんの家を訪ねた。彼女は不在で母上と話しての帰り、「私も出るわ」と荻窪駅まで同道してお弁当を買ってくれた。

 

  その道々、すまなそうに語ってくれたのは、「緑には高校からのボーイフレンドがいたのよ」ということであった。そしてその彼は「東京医科歯科大」に入ったこと、また、母上の友の息子が私と同級のTであることも教えてくれた。

 

  Tは高校でAFS留学した英語使いで、緑さんのこともよく知っていた。その彼から、これまた思わぬ情報があった。

 

  フランス語科に、ロシアとのハーフの美人がいた。湘南高校(あの根岸英一さんも卒業)出の才媛であったが、残念にも1年で医科歯科大に行ってしまった。そしてやはり美人、さっそくに緑さんの彼が言い寄ってきたということだった。

 

  そんな情報はどのように巡ったのかと思うが、それはともかく、彼女は何故か医者にはならず、今はハーバード大学で日本語を教えている。

 

  余談ながら、フランス語科にはもうひとり、これは父が中国人という、何故か17歳で東洋英和から入ってきた、これもまたできる子がいた。中国人と結婚し、アメリカで公認会計士をしている。

吉永小百合

  会社人間になってほどなく、始まったばかりのテレビ販売の仕事で、当時河田町にあったフジテレビに日参していた頃、吉永小百合を見かけたことがある。玄関前に人だかりがしていて、その中にやはり、輝くような存在感のあったのを覚えている。写真撮影であった。

 

 

  そしてその後発表された結婚相手にあっと驚いた。仕事でいつも顔を合わせていた、フジテレビの番組製作子会社の社長で、17~8歳上の、なるほど小百合の言うように、じゃがいものような人であった。

時移り~、

 

  住むところも変わっていたある日、朝日新聞の学芸欄に緑さんの寄稿が載った。女性音楽家云々の論考で、国立音楽大学教授になっていた。

 

  大学宛てに年賀状を出したら返事がきた。ご主人は音楽評論家のようであった。あの医科歯科大ではない。

 

  そしてまた、ある日、テレビのニュースで彼女を見た。片山総務大臣からNHK経営委員任命の辞令をもらう場面であった。名前を言われなければ彼女とはわからなかったであろう。あの可憐さは見る影もなく、容色は衰えていた。