le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

カンボジャに散った男~中島照男

フランス語科

 

 フランス語科は、当時、定員40名。と言っても、留年する者多く、また、途中で他大学に転じる者、長期で海外に遊ぶ者、ほとんど顔を出さない者など、年次の進むほど入り繰りは多くなり、入学から卒業まで同じ顔ぶれのかたまりということはない。私の入学4年後の卒業は26名、1年ダブった私と同じ年度の卒業は36名であった。

 

 そういう混在の一方、大学の個性であろうか、みなそれぞれに一匹狼で、小所帯ながら同じ釜の飯と言ったウエットな同窓意識はない。

 

 だが、数年前、同窓名簿の物故者欄に発見した名前から、一種同窓の気分に浸ったことがある。

 

 私の記憶からずっと消えていたその女の子とは、考えてみたら口を利いた覚えがない。いつも一人離れていたが、それでも何年間か席を同じうした彼女はいったいその後どんな人生を送ったのか、袖振り合うも他生の縁とは、と思うと、何か寂しく懐かしいのである。

 

 その同じ年次の物故者欄に載るのが、山岡久修、そして、4年間在籍しながらどこにも名前のない中島照男、この2人は、我が心中深く思い出の印字されたフランス語科同窓である。

中島との出会いから、その死まで

 

 中島は山梨の高校から“一つ橋”に入ったが、私と同様、経済学よりも文学をという気分で転じてきたようだ。額の上に盛り上がる縮れぎみのぼさぼさ髪、縁の太い眼鏡、ぶっきらぼうな物言いがいかにも押しの強さを思わせる、そんな無骨な雰囲気に、これは私の肌に合わぬというのが、この男の私への最初のインパクトであった。

 

 まだ入学まもない頃、たまたま席が隣り合わせて、私の手にしていた万年筆をちょっと貸してくれという。いやいやながら貸したのだが、力を入れ過ぎてペン先をゆがめてしまい、さらに印象を悪くした。

 

 個性ばかりの集まりながら、一年目は、週のコマの半分くらいは、全員同じ必修のフランス語のためもあってか、やがていくらかの仲間意識もできて、誰の発意なのか、文集が企画され、私もつたない詩を載せた。

 

 ある日、その詩を見たという中島から声がかかった。 同人誌をやろうと言う。

 

 それから親交が始まった。やはり同じフランス語を学ぶ同士としての共通項はけっこうあった。話題によっては真剣な議論をした。そして、私は、知的強靱さにおいて、この男にはかなわないと知り、なまじっかな文学志向はやめようと思った。

 

 彼はすでに“女”を知っていた。その文学性とは裏腹に何の修飾も形容もなく、そのものずばりで語ってくれた。 思い返すに、その直截性に後の彼の失敗の萌芽はあった。

 

 酒は強いが甘いものも好きで、帰りが遅くなった時でも都電は使わず、真っ暗な染井墓地を抜けて巣鴨駅まで歩き、たいていは彼の言いだしで、夏は氷、冬は蒸し饅頭になる駅前の店によく立ち寄った。風の冷たいときの湯気のたった白い酒饅頭のうまかったこと。

 

 4年生になってから、私は大学にはほとんど顔を出さず彼ともめったに会うこともなかったが、11月も残り少ないある日、毎年中旬から1週間ほどある大学祭の夜、彼が女の子に悪さをして訴えられ教授会にもかかっていることを知った。              

 

 議論はかなり紛糾したようであったが、後に学長にもなる社会学教授の強行論に押され、彼は放校処分になった。入社試験を受けていた朝日新聞の内定を得ていたのかどうか、とにかく諦めざるを得なかったという。

 

 そして、彼は大森実に弟子入りした。大森は毎日新聞外信部長時代、ヴェトナム報道で鳴らし、ライシャワー駐日大使からも睨まれた大物記者で、「毎日」を辞めてから「東京オブザーバー」というタブロイド紙を立ち上げていた。

 

 彼に最後に会ったのは、大学を出て2年くらいであったか、渋谷の駅頭で、「・・・・」と大きな声で呼び止められた。その新聞を立ち売りしていたのである。

 

 次に彼の消息を知ったのは、それからさらに2年後のある夜、ラジオでその名前を聞いた時である。カンボジャで日本人記者撃たれるという短いニュースであった。行方不明の後、クメールルージュに殺害されたようだ。27歳だった。

 そして、彼の卒業からの詳しい動静を知ったのは、大森が上梓した「虫に書く」(写真下)からであった。広告で見たのか、本屋の店頭であったか、このタイトルにはピンときた。彼が好きだった言葉「虫瞰図」(出所は小田実ではなかったか)からとったのだと。虫のように大地を這いずりまわって書くということだ。副題には“ある若きジャーナリストの死”とあった。発行は、1972年である。

 そしてまた、その何年後か覚えていないが、朝日が、社会面に、戦死ジャーナリストの回顧記事を載せたことがある。沢田教一などとならび中島の写真があり、記事の最後に中島の父の歌が引いてあった。

 

 「名に立つも名に立たざるもよし 生きてあらば語ろうものを 永久に子は消ゆ」

 

 さらに、これはつい最近のことであるが、 本屋で偶然「大森実」と大書した本の背が目にとまった。現役の毎日新聞外信部副部長の著した伝記で、中島のことにもかなりのページが割かれていた。   (2011.9.30)