le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

私の家庭教師遍歴

家庭教師御三家

 

  東京の大学で、かつてこう呼ばれていたのは東大、教育大(現筑波大)、そして、私の出た東京外語であった。たしかに毎日教務課の前に張り出されるアルバイト募集には家庭教師が多かった。

 

  私の属したフランス語科同級生で、第2外国語にドイツ語を選択すると同時にドイツ語の家庭教師を始めた猛者がいた。習ったことを即伝授するのは合理的でもあったが、それにしてもと思う、そのくらい家庭教師の口に事欠くことはなかった。(彼は名古屋大学を出ていて、ドイツ語はある程度かじっていたのかもしれない。)

 

 でも、私は最初の一年目を大学祭の語劇などにかまけてダブってしまい、アルバイトどころではなかた。

小1にフランス語

 

  2年目の1年の時に初めて得た口は、飯田橋のフランスカトリック系ミッション「暁星学園」の小1にフランス語を教えるもので、その暁星高校出の級友に紹介された。

 

  同級生に中村勘三郎(当時勘九郎)がいたというその腕白坊主と、さらにいたずら盛りの弟、2人の遊び相手のようなもので、フランス語そっちのけの体力勝負であった。  

  

  教える妙味はなかったが、浅草の開業医の家で、私には初めての下町体験の物珍しさと、それに奥さんの津島恵子を思わせる妙齢もあって、いくらかの楽しみでもあった。

 

  ちょうどその頃、フランスの尼僧グループの歌う「ドミニク」(*)がはやりだし、教えようと試みたこと、また、おやつにとよくとってくれたソース焼きそばが、これぞ下町の味というべきか、その妙齢には似合わぬながら、うまかったことなど、忘れられない。

 

  勘三郎がマスコミに登場するたび、それら思い出とともに、ああ、あの坊主たちももうこんな年になっているのかという感慨を覚える。

   (*) http://www.youtube.com/watch?v=qUzY-W2klT4

               (これの3曲目に出てきます)

中1女子に英語

 

 2人目は、日本橋問屋街の一角、小さな軒先の混み合う裏通り、しかとは聞かなかったが、どうやら麻雀屋を営むらしき、しかつめの親父で、その一人娘であった。上野駅すぐ近くにある上野学園の中1。ここは音楽学校であるが、多分その普通科で、英語を所望された。

 

  普通の民家にはない帳場のような窓のない狭く薄暗い部屋の掘り炬燵で向かい合い、ある時ふと気がついたのは、片方の手が普通ではなかったことである。

 

  軽度の小児麻痺であろう、それもあってか、親父はその子を溺愛している風で、ある時、私がしょっちゅう咳をしているのを気にして、医院を紹介するから診てもらえという。私のことを心配してではない、娘のためを思ってである。内心むっとしたが、無理もなからんと、私は渋々承知した。

 

  商の中味ははっきり言わないのに、客には近在の会社の偉いさんの多いことを語り、美智子妃の正田家の名前まで出てきた。

 

  そんなこんなで、数ヶ月で私の方から手を引いた。

アルバイト料

 

  1年の中頃から、卒論準備に入る3年の中頃までの2年間に5人を受けもったが、常時2~3人の掛け持ちでほぼ週3回、月1万円ほどの収入になった。

 

  当時、大卒の初任給がようやく1万円を越えたくらい。親がかりの大学に払う授業料は、入学の年が9000円、翌年12000円になり、卒業まで変わらなかった。これは月額ではない、年額の話である。

 

  当時、東大からきた岩崎先生が、辞令に週1の授業の月手当2400円とあって、学生の家庭教師料よりも低く驚いたと述懐していた。

立教中学2年男子

 

  親は商売をしていて、家にいること少なく、子供は進学受験の心配のない私立にいれ、後は家庭教師にお任せの典型的な生徒であった。学業は今ひとつながら、小遣いに不自由せず、世間知に長け、やや生意気な、善良小市民の会社員家庭に育った私には苦手のタイプであった。英語を中心に教えた。

 

  私の家から駅2つと近く、通うには便利であったが、いつも終わってから夕食が出るので、時間の節約にはならなかった。

 

  その余分な時間のもうひとつは、課外で遊びに誘われることで、狭山湖の人工スキー場(現西武ドームそば)に行ったこともあった。その代わりというか、夏冬に何日間かお休みをくれたが、毎月もらう分は変わらなかった。 

暁星高校3年男子

 

  山手線田端駅から数分のところで、大学(2つ隣の巣鴨)の帰りに便利であった。ここも、何か商売をしているらしき木訥な主人と、ぽっちゃりした控えめで決して教育ママではない、やはりお任せ家庭の、おっとりした一人息子で、受験英語を教えた。

 

  今ひとつできがよくないなと思っていたが、日本歯科大に合格したのには驚いた。

 

  よく出してくれたイチゴミルクが、練乳ではなく牛乳だったのが、何故か印象に残っている。 

帰国子女

 

  父は三井物産ロンドン駐在から本社鉄鋼部副部長に栄進して帰国の、堂々とした偉丈夫ながら、息子は華奢で大人しく、年齢は高3をひとつ過ぎていた。英語は私よりずっとできたに違いないが、肝心の日本語がややたどたどしく、すべての科目をみてくれと言われて、弱ったのが数学である。

 

  なにせ高校では、男子では極めて少数派の文系コースで、数Ⅱさえまともにやっていなかった。仕方なく、あんちょこを買って自習してから臨んだ。

 

  当初、中野駅近くの都営住宅らしき仮住まいであったが、途中から移ったのは、茗荷谷駅至近ながら閑静な住宅街に鉄筋3階建ての瀟洒な新築。今なら優に億を超えるであろう、さすが三井物産と思ったものである。