le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

  大阪で半年近くの新人研修を終えて赴任した東京店「婦人服地・誂え」の売場に、他の大勢の売り子たちとはちょっと違う育ちのよさそうな2人の女性がいた。

 

 ひとりは誂え部門事務係の“ひさ”。 もうひとりはデザイナー職の“愛子”。

2人に“育ち”を感じたのは、私とウマがあったということであったかもしれない。

  “ひさ”という名前は時代を感じさせるが、その時、30代の後半(昭和ヒトケタ世代)であったろうか。楚々として、おっとりとひそやかにしゃべる綺麗な人で、独身のひとり暮らしであった。

 

 彼女の机は私がいつも立つ売場の奥にあり、女好きの課長がわざわざタバコ休憩にやってきては口説いていたが、私に語るに、彼女は鼻も引っかけなかったようだ。課長の兄はNHKのアナウンサーでテレビにもよく出ていた。

  “ひさ”という名前は時代を感じさせるが、その時、30代の後半(昭和ヒトケタ世代)であったろうか。楚々として、おっとりとひそやかにしゃべる綺麗な人で、独身のひとり暮らしであった。

 

 彼女の机は私がいつも立つ売場の奥にあり、女好きの課長がわざわざタバコ休憩にやってきては口説いていたが、私に語るに、彼女は鼻も引っかけなかったようだ。課長の兄はNHKのアナウンサーでテレビにもよく出ていた。

 “ひさ”からは、年の差もあってか、よく“~ちゃん”づけで呼ばれたが、仕事を離れてのことは何もなかった。ただ、一度だけ、男として愧じるべきことがあった。

 

 軽い飲み会の退けてからである。帰りが山手線の同じ方向で、2人だけになった時、どのような言い回しであったか、決して据え膳ではないが、当然の合いの手として、もうひとつのはしごか、送り届けるかの提案をすべき間合いがあった。

 

 だが、一瞬の逡巡で私はその勇気を逃してしまった。

  この2人の年上女性を語るにもうひとりの役者として、私の2年後輩の男を挙げねばならない。彼は慶応出の恵まれた家のぼんぼんであった。

 

  彼が赴任してきた時、私はもう誂え専任になっていて、彼は違う品番の所属ながら何故か私を慕ってきた。話してみるとなかなかの切れ者で、私がチーフをした事業企画プロジェクトでは、彼をメンバーにするよう会社に推薦した。そんな縁で、彼も姉さん2人との親密の機会を得た。

 

 よく聞くと、彼は渋谷の松濤育ちで、愛子と同じ小学校など共通の話題をもっていた。

 

  ある時のクリスマスに愛子が私と彼を家に招待してくれた。2人セットなのか、どちらかがついでだったのかはわからない。当時、彼女のご主人は札幌東急に単身赴任していたのであるが、それぞれの思いは別にして、3人で大いに呑み大いに語り、川の字になって一夜を共にした。

 

 だが、彼は3年も経たずして会社を辞めた。その後、学習塾をやっていると聞き、しばらくして鍼灸師になったと聞き、その後、テレビにまで出る有名人になったと知った。

   愛子は、神戸で会ってほどなく札幌に転居し、直後にご主人が常務取締役札幌店長になったのを新聞で知った。札幌では雪は横から降ってくると言っていたが、やがて年賀状も途絶えた。

  相前後して本社に届いたビッグニュースは、なんと、彼と“ひさ”の結婚であった。彼女は売場事務から転身して、ジバンシィプレタ売場の主任として在籍中であったため、店中の話題になったようだ。20歳と言わずもそれに近い年の差のはずであった。

 

 その何年後であったか、東京出張の折、渋谷の駅頭で偶然、彼女を見かけた。

女の子を連れていた。一瞬、人違いかと思ったが、子供の顔立ちからは紛れもなかった。

 

  あまりの偶然に声をかけそびれたが、それでよかったと思った。

変わらぬ楚々とした面立ちに穏やかな表情のあり、何かほっとした。 

 物静かなハイミス、チャキチャキの張り切り夫人、そしてユニークな鍼灸師の三角か、私を加えての四角だったのか、それぞれの配役のその後は知らない。 (2012.3.5)