le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

縫い子 ロペツ

ジバンシィ オートクチュール 

 

  昭和40年代、百貨店にはまだ婦人服地売場があり、けっこうな広さをもっていた。

  私の最初に赴任した東京店のその売場の一角を占める誂え部門は、ジバンシィのオートクチュールを売り物にしていた。

 

  生地はもちろん、ボタンや糸、また使う針まで、ジバンシィと全く同じ仕様で、日本人向けに提供するのである。そのため、売場内にアトリエを設け、そこにジバンシィ社から縫製指導に派遣された女性、ロペツがいた。その世話係は新人の私の役目のひとつになった。

 

  彼女はジバンシィと同じスペインの出で、その時、30代前半というところか。おそらく義務教育を終えてすぐに故郷を出て、ジバンシィの門を叩いたのである。

 

  スペインはピレネーの田舎から花の都・パリにかばんひとつで出てくるは、その意気込みやすでにひとかたならぬものであったに違いない。小柄で華奢ながら、仕事への執着は筋金入りで、勤務時間などいっさい頓着せず、ときに深更までつきあわされた。

代官山アパート

  東京は3月によく大雪のあったが、たまたま彼女を歯医者に連れて行く日がその一日になったことがある。(NHKラジオ「今日は何の日」で、昭和44年3月12日と判明)

  店を出る頃から降り始め、飯田橋の日本歯科大に着くころには、すでに一面の白い風景になっていた。駅前歩道橋を渡る時、滑って倒れかかってきた彼女を受け止めたはいいが、したたか腰を打った。(この歩道橋は今現在も変わらず、右写真のこの階段を上がる時のことであった。)

  診療を終えた頃にはもう吹雪の状態で、  これは電車が止まると判断、職場には戻らず帰らせることとし、代官山の東急アパート(写真左)まで送っていった。

 

  無論、玄関先でお役ご免のつもりであったが、中に入れという。

私の給料よりずっと高い家賃の高級フラットはがらんとして、広いリビングに食卓テーブルがひとつポツンとあった。

  そして温かいお茶を期待したのに、なんと飲みかけて栓をしたビールを出してきて、フランスパンを直にテーブルにおいてくれた。かの国では、バゲットを裸のまま小脇に抱えて歩くくらいで、パンを直にテーブルに置くのも普通のことではあったが。

 

  そのパンを囓りながら、彼女の思いを読むべく、腰の痛みを気にしつつ話題を探した。いかにも無粋なそのもてなしに、彼女には色恋などに気を遣うモードなど、はなからないのか、でも、そもそも、女一人の部屋に男を招じ入れるとは…、と、妄想を巡らした。

 

  だが、我が下心はくるくる巡るばかりで、それ以上には、どうしてもテンションは上がらなかった。彼女の狸のようなツンとした面には、上がりかけた熱もすぐに冷まされてしまった。

 

  右も左もわからぬはるか異国に、女独り、腕一本で生きてゆくには、余計な色気は無用と彼女が選ばれたのかもしれない。

その後~ 

 

   私は後に本社に異動して、彼女のその後を知らないが、オートクチュールの退潮とともに、彼女はジバンシィを離れ、伊勢丹のバルマン、松屋のニナリッチと渡り歩いたと、風の便りに聞いた。

 

  日本でひと身上を作り、今頃、パリのアパルトマンか、あるいは故郷の田舎で悠々自適の老後を送っているのであろう。

カフェ コクリコ MENUに戻る                    2012.1.30