le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire
歌手はプレイヤー
現代のマスメディアに乗って一般大衆にアピールする三大人気アイドル職は、映画スター、スポーツ選手、そして歌謡曲歌手であろう。この中で、スター性はともかく、その分野での役割価値を過大に評価されているのは歌謡曲の“歌うだけ”歌手ではなかろうか。
“歌うだけ”とは、作詞・作曲を自分でするのではなく、作詞・作曲家が提供してくれるものを、ただ演奏するだけ、ということである。
代表選手として、多分もっともヒット曲が多い、二人の歌い手、美空ひばり、そして、石原裕次郎を挙げてみよう。美空ひばりは天才と言われ、石原裕次郎は、その命日にはいまだ何万という弔意のファンを集める、共に国民的人気を博し早世した歌い手である。
美空ひばりの天分
美空ひばりの歌の天分については認めよう。とくに、裏声での伸びと声量、また音程の確かさ、それでいて楽譜は読めなかったという音を聴きわける耳のよさ、それは歌謡曲以外のジャズなども自在にこなしていることにも指摘できよう。
数々のヒット曲に恵まれたのは、作詞・作曲家諸氏も彼女のその天分を認めたからである。それは、よしとして、では、美空ひばりという存在がなかったら、それらヒット曲は生まれなかったであろうか。
そんなことはない。別の誰かに提供されていたであろう。今なら、たとえば似た感じでなら、天童よしみあたりでもいいではないか。
クリエイターではない
歌という芸術・芸能作品は、歌詞と曲と歌い手の演奏によって完成する。 この役割分担において歌詞と曲の創作者は、どの歌においても余人をもって代えがたいが、歌い手はどうであろうか。
ある創作において、歌手の才能がその発起になることなどまずありえない。まず、オリジナルの歌曲が創作され、その演奏者が選ばれる。
つまり、作詞作曲はその人でしかできないクリエイターの産物であり、それを演奏するのは、代替の利くプレイヤーに過ぎないのである。 だが、こと、流行歌謡曲にあっては、“持ち歌”として、まるでその歌い手が作り出したかのごとく一体となって大衆にアピールし、その評価がなされる。
その評価の特許のごとく定まって後、他の誰かが“カバー”として歌うことが許される。ここに、歌い手過大評価が生まれる。天才美空ひばりも、さほどにかけがえのない存在ではなかったのである。
偉大なる素人、石原裕次郎
この、自らは創作しない単なるプレイヤーとしては、男声、石原裕次郎もまったく同様である。ただ、裕次郎については、やや赴きを異にする。彼は映画俳優としてその芸能人生をスタートさせた。
歌手としての裕次郎は、映画スターとしての裕次郎があって生まれたのである。そのスター人気なくして、歌手・裕次郎は生まれなかったであろう。
ところである。あの裕次郎が、例えば麻生首相ほどの上背と looks であったらどうであろう。あのかっこいいタフガイ裕次郎は誕生しないであろうし、歌手・裕次郎も生まれてはいない。
なんと言ってもあのかっこいい肉体と、その肉体の発散する、母性をくすぐる“やんちゃ”性なくして、スター・裕次郎は考えられないのである。
そして、断言すれば、そのもって生まれたものを大前提とした、映画俳優としても、歌謡曲歌手としても、偉大なる“素人性”が石原裕次郎の真骨頂である。この“素人性”には、歌い手としての裕次郎の代替は見つけにくい。
裕次郎の歌い方を一言で言えば、“ベルカント”とは対極にある、口先詠唱である。
だが、それにしては声量はあるのであろう、不思議なゆとりがあり、それが、あの野太く、且つ、ややハスキーな声色と相俟って、裕次郎節とも言える独特のムードを醸成する。
スター・裕次郎のかっこよさをインプリントされた者には、そのムードに包まれるのは、たまらないのである。歌のプロほどに真似できないムードである。
美空ひばりは、うまいが代替がきく。裕次郎は、代替はきかないが、決してうまくはない。いずれも過大評価された名声であり、人気である。ただ、今の紅白歌合戦常連の、例えば、石川さゆりや北島三郎などと比べると、ずっと大きい時代的存在ではあった。