le cafe COQUELICOT pour un penseur solitaire

 性(SEX)における女性優位 

 

 男の方が優位にあると思われがちであるが、実は違う。 

 

 男と女の肉体を比べると、一般的には男の方が体格よく、腕力や性的攻撃性もあることから、性の能力とその performanceも、男の方が優位と思う向きが多いのではないか。

 

 だが、生物学的に仔細に見れば、実は女性の方が優位にあることがわかる。

1.   発生学的、進化論的視点

 『旧約聖書・創世記』に神はまず アダム を次いで エヴァ を作ったとある。

また、『新約』では エヴァ は アダム から作られたとしている。この筋立ては進化論的にも、発生学的にも間違っている。

 

 生物は無性生殖から有性生殖に進化する過程で両性具有の段階があり、

≪オス≫はそこから分化したものだ。

 

 個体発生は系統発生を繰り返すというが、人の受精後の個体形成過程における胎児の未分化の性器は女性型で、その中のY染色体を受け継いだ胚が、ある時から男性ホルモンが分泌され、性器は男性型に変わってゆく。

 

 その相関関係は、小陰唇部はペニス茎部に、クリトリス部は亀頭に、大陰唇部は陰嚢になるとされる。

 

 神は、人により強い種の継承を図らせるため、異なる個体との交配による発生機能を分化させ、その分化の端緒を担うものとして、精子という≪タネ≫を担う男を創った。

  

 そしてその役割をきちんと果たすよう、男に、≪タネつけ≫の initiative と共に射精の快感を与え給うた。

 

 男の究極の役割はその≪タネつけ≫であり、男を決定づけるだけのY染色体がX染色体にくらべ貧弱なのもその故である。どう見ても人の原型は女であり男は女から分化したと見るのがなにかと整合する。

2. 生殖における選択権

 

 結婚相手の選択は一般に男の方から申し出るのが作法とされるが、それは、男に花を持たせているだけで、結婚の生物学的目的たる生殖の選択権は女性優位である。

 

 女性が生涯に産する有効な卵子は約30万個。そのうち出産可能年齢内に受精に供せられる、つまり、排卵されるのはわずか400個。

 

 これに対し、一回の射精で億という数が放出される精子は生涯で1~2兆個にもなる。卵子1:精子25~50億という比である。

 

 宝くじの一等が100万分の1の確率というから、これはもう、優位どうのこうのという話ではなく、相手を選ぶ権利は絶対的に女性にあると言える。

 

 加えて、精液がアルカリ性であるのに女性の膣内が精子の生きにくい弱酸性というのも子宮は入り口で精子を排除するのを前提とし、そのバリアーを乗り越える強い精子のみを受け入れるという環境であり、選択どころか拒否が基本なのである。

3. 性行為能力

 

 『古事記』にイザナギのみことがイザナミのみことに、≪あが身の成り余れる処をもちてなが身の成り合はざる処に刺し塞ぎて~≫と、呼びかけるくだりがある。

 

 お前の≪成り合はざる≫、つまり、きちんと出来上がっていない淋しき空虚に私の身から成り出て余るところの≪モノ≫を差し入れて、その≪淋しき≫を埋めてあげようというわけである。

 

 男たるイザナギが仕掛け、女たるイザナミがこれを受け入れるという交接の基本ポジション~これをもって、性行為の主導権は男にありとする神話時代からの大いなる誤解は今もって男の固定観念としてある。

 

 だが、主導権と思われるのは≪タネつけ≫の契機のみで、性行為に必要とされる能力はすべての点で女性の方が勝っている。

 

 それぞれの性器官の形状からして男が仕掛ける立場に立つは自然なことではあるが、それは一方で、男が能動性・自発性・自立性、それらを統御する意思性とエネルギーを要求されることであって、その前提から男は常に女性に喜びを与えることを期待されることでもある。

 

 しかるにである、その実践の武器たる男の≪成り余れるモノ≫の、これほど意のままにならぬものはない。

 

 イタリアの社会学者 Francesco Alberoniは言う。≪vaginaは閉じていて見えないから開かなければならない。意思の力だけがそれを開くことができる。

ところが、penisは意思の力はない。勃起は意思に関係ない≫

(泉典子訳『エロティシズム』~中公文庫)

 

 これは神の思し召しなのか陰謀なのか、この意思性と非意思性のギャップこそさまざまな性の悲喜劇を産み、女性をして性の優位に立たしめるのである。

 

 男にはその威厳と立場を誇示できる形と一方的な機能を与えながら、つまり男の方が発意して勃起させ、差し入れぬ限り≪できない≫しくみとしながら、男の意思性を剥奪している。

 

  女性にはわかりにくいかもしれない。こういうことである。

 

 ペニスには筋肉がない。手指のように意思で動かす術をもたない不随意器官なのである。筒の中身は海綿体で、そこに血液を送り込み膨張させ、筒の白膜の伸張限度を越えると静脈を圧迫して血液の流れを止め、励起させる、これが≪勃起≫である。

 

 この血液を送る指令を発するのは脳の欲情中枢。その指令を促す刺激は五感および想像力のセンサーから得るのであるが、センサーと脳を仲介するのが自律神経たる副交感神経である。

 

 胃や心臓を動かしている交感神経と同様自律的に作用するもので意思によっては制御できない。つまり、刺激のあれば意思に構わず勃起してしまうのが男なのである。一方で、アルベローニもいうように、vagina を開くには強い意思が要る。

 

 意思による刺激の取捨選択もできないから、男は一方的に入ってくる視覚刺激に弱い。ポルノ産業の拠って立つのも、男のこの弱みである。

 

 女性は視覚より触覚刺激に敏感で、目をつむったり真っ暗闇でも楽しめるが男は暗闇で視覚が利かないと欲情指数は半減する。それだけではなく、副交感神経は心理状態に左右されやすい不安定な神経で、男の性が一見獣的に見え、実はひ弱でメンタルなものであるのはそのせいである。

 

 勃起メカニスムを保証するものはなんと言っても肉体の若さであるが、神のミステイクはその若さに対しては、あまりに過剰な精力を与えて、時に売春や性犯罪の元をなし、一方、肉体の衰えには容赦しないことである。

 

 男の精力は大体20歳頃をピークとして、以後は下降の一途を辿り、50代にもなれば、もう生殖には用済みとばかり、どんどん不能に落としめてゆく。有効期間は案外短く、夫婦の≪レス≫問題の一要因ともなる。 

 

 女性の方はどうか。膣は基本的には受容器官としてその必要条件はシンプルである。感応の度合いは別にして、ペニスとの摩擦を和らげる円滑性さえあればよい。男のような意思の強制は要らないし、不如意に悩むこともない。

 

 老いによる潤いの低下はあっても、それは人工的にいくらでも補うことができる。肉体の老化はあっても、器官それ自体の有効期限はない。ただ、どの器官であれ、使わないでいると退化してゆく。

 

 大岡越前の守の、≪女はいつまで~?≫という問いに、母が火鉢の灰をかき混ぜて≪女は灰になるまで~≫と≪死ぬまで≫を暗示したというのは当時としてはすこしも誇張ではなく、寿命の延びた今でもまんざら根拠なしとしない。

 

 だから、女はたとえ伴侶がだめになっても、相手さえ変えれば、いつでも、いくつまでも可能である。男はそうはいかない。いくら若くセクシーな相手に変えても、できないものはできない。 

 

 大体、どちらが上位かどうかは、そのときの態様を見ればいい。女がひたすら忘我の境に浸るに対し、男は全身全霊をもって奮闘これ勤める。

 

 射精という自らの目的のためとは言え、それこそ神の陰謀であり、その見るも滑稽なる所作は、結果として女の忘我に奉仕する奴隷の仕事になっている。

 

 男が、とかく沽券を問題にし何かといばりたがるはそういう奴隷的奉仕と、一方で女の期待を裏切るときのみじめさへの恐怖の裏返しではないか(暴力も同じである)。

 

 いかに位階高き聖人君子であれ、品格ある紳士貴顕であれ、また、威厳ある博士・先生、はては尊き神父・神官・僧侶まで、その潜在恐怖の中、その時は皆、同じ姿勢・同じ反復運動をもって奉仕せざるを得ないのである。

 

 これら偏に、性行為能力の女性優位・男性劣位に由来するものである。

4.性の感度

 

     性の快楽の大きさを決める感度は、他の何にも増して女性が優位にある。 

 

 §感度の上昇性

 女性の性感には、年齢に伴う上昇性があるが、男のそれは一定不変である。それは、性感発生の違いによる。 

 

 男は大体10歳頃、まず、無意識の夢精に出会い、前後して勃起を経験する。いずれも自然に起こるものである(かつて、跡継ぎを成せる男になった証拠として、元服はこの年齢頃から行われた)。

 

 やがてその延長で、まず、すべての男は masturbation を覚え、射精の快感を知る。この快感は、同じ射精ということにおいて、実際の性行為とほとんど変わらない(これもポルノを成り立たせる所以である)。

 

 現実の相手があって違うのは、女性の示すさまざまな媚態や嬌声また接触の感触が、男の五感を刺激し、欲情をいや増すからであるが、そのいわばメンタルな状況が交接の満足感を賦与するに過ぎない。

 

 その満足感は内心は崇めている女性性を引きずり下ろした、やや露悪的征服感でもある。これに対し女性は性徴の発現とともに似たような生理はあっても基本的にはほぼ白紙からスタートし経験によって新しい感覚を獲得、そのフロンティアは年とともに広がってゆく。

 

 男が20歳代でピークに達し、以後、下降するに対し、女性は一度目覚めればどこまでも続く長い上り坂を登ってゆく。 

 

 男における性的な早期自然発現は、男をして抑制のきかない行動に走らせがちになるに対し、女性におけるその受動的遅行性は自己統御の余地を与え、もしその機会のなければ、しばらく冬眠してしまうことも可能とする。

 

 ただ、それが男の自己中心性となり女の我慢強さとなっての不幸な出会いはしばしば女性の側に被害を生む。

 

 女性における不感症の多くは、その結果であり、また、白紙状態での性的被害は、しばしば、そのトラウマからいつまでも抜けきれない悲劇をもたらす。男の不能が多くは先天的であることとの違いがある。 

 

 また目覚めてさてこれからという時あるいは40代・50代の女の円熟ステージにあって、肝心のパートナーの協力が得られず、そのまま封印、さらには卒業を余儀なくされてしまうケースも多い。(この時期の“卒業”による女性ホルモン不足は更年期障害の一因ともなる)。 

 

 いずれにせよ、男が早くからの下降曲線であるに対し女性は常に上昇曲線を描いてゆく。長寿化の今、両曲線の交わりをできるだけ遅くする知恵と行動が求められる。

§性感センサーの広がり

 男の性感センサーは、ただひとつ、ペニスにしかない。手や指、その他随所での接触の感触はそれ自体は快感ではなく、その行為が欲情を喚起するだけに過ぎない。そのペニスも、感覚神経は、≪カリ≫から上の亀頭部に集中している。

 

 さらに言えば、亀頭の裏側のウサギの口元のような結び目がスイートスポットになっている。あの涙ぐましいピストン運動は、偏に、このわずかな先端部分 friction の刺激で射精を促すためなのである。 

 

 かように男のセンサーが限定されているのに対し、女性のそれは広汎、且つ性能もいい。まず、基幹となる機能が、vagina、clitoris、2つもある乳房、人により anal と、男を圧倒している。

 

 さらに体のいたるところ、耳たぶや足先、背中にまで≪ツボ≫のように分布するセンサーへの刺激がパルスとして伝染する。

 

 陰部自体も、先端がわずかに覗くclitorisの神経叢は小陰唇から大陰唇へ、さらにvagina 内部へと繋がり、anus(肛門)でも感じるのは、この部分も一体として機能しているからである。

 

 言わば網の目のようなセンサーを、もし、北斎の『蛸』(*)のごとく攻めることのできるなら、喜悦に咽ぶ女体の想像に難くない。とかくvaginaのみに集中しがちな、ペニスにしかセンサーのない男は、以って瞑すべしや。

 

 (*)『蛸と海女』:世界的にも知る人ぞ知る傑作。かつて「芸術新潮」に、最近では雑誌「太陽」の臨時増刊「春画」に掲載された。 

 

 ただ注意すべきは、男がみな、ほぼ一様なのに対し、女は個人差が大きいことである。これは、それぞれの性感発生経験の違いによるもので、愛撫も一律ではいけないわけだ。 いずれにせよ、男のセンサーが針とすれば女は体全体が感知シートであり、とてもかなわない。

§快感の持続性 ~ 男は一瞬、女は?時間 

 

 acme とか ecstasyとか言う絶頂感、それは頂点であることにおいて、ある一点の時間であるが、その頂点に至るまでの個々のセンサーから得る気持ちよさ、その反復による体全体の昂揚感、また登り詰めてからの浮遊感とその持続、そしてクールダウンするときの余韻、これら総体が女性の性の快感であると言える。

 

 女性はこれらステップのひとつひとつを着実に時間をかけて昇って行き、ある点で、いわゆる≪イク≫という一種の痙攣虚脱の域に達する。

 

 だが、そこからもさらに刺激のあれば、次なる頂点へ、また次の頂点へと、高原状態を維持する。その高原を過ぎてからも、緩やかに下りながら、また別の爽快感を得ることができる。

 

 これら一連の流れを通過するにはそれなりの時間を必要とし、また、その時間をかけた起承転結のあって、ひとつのラウンドが完結し、心からの充足も得られる(これを理解しない男は多い)。男にはこのような連綿とした感応ステップはない。

 

 男のそれは棒高跳びのように長い平地の助走と瞬間の飛躍あるのみである。飛躍とは射精の一瞬で、ある高みには達するが、次の瞬間には滝つぼに落ちるごとくに醒めてしまう。

 

 女にはある余韻というものは男にはなく、終わったらすぐに離れたがる。興奮に呻く反復運動やアクロバットの長々とあっても、それはどこまでも助走であって、ラウンド全体の気分的満足度を高めはするが、極点はあくまで射精の時点であり、またそれしかない。

 

 極点のあるということにおいてはmasturbationも3分間の早漏も何時間ものレスリングマッチもさして変わらない。しかし、独りよがりな早撃ちマックが女性にとっては味もそっけもない、いかにむごいものであるかは言うを待たない。

§快感のレベル

 セックスカウンセラーの山村不二夫(1922~)は、目覚めた女性の快感は男の数百倍と言う(『性技実践講座』、河出文庫)。ただ、これも個人差が大きく、且つ、女性自身も他者のそれはわかりようがないから、客観的評価などできない。

 

 それでなお、性科学者にして、無慮幾千の女性に実践で奥義を提供してきた氏の話には説得力があり、その他、さまざまな情報を総合してみるに、男の快感レベルは女のそれの足元にもおよばぬものであろう。  

 

 男として嘆息するのは、さように深遠なレベルにあってなお、さらにひと押しふた押し攻め続けるならば、女はみな底なし沼に落ちてゆくというその際限のなさである。

 

 男はごく若いいっ時は別にして、一度達してしまうと(若く激しいほど達し易いのだ)、次なるスタンバイまでに時間を要し、連射などできない。発射直後の攻勢はそう簡単ではない。

 

 思うに、前戯であれ後戯であれ、ハンドマッサージ器や種々の専用ツールは、決して女性のためではなく、男性用お助けグッズなのである。男には、無際限の終止符たる“失神”というのがないから、こういうお助けが要るのである。

 

 “昇天”という形容も女性にしか使えない。ペニスという局部から遠い男の脳はけっこう醒めているが、女性は、ポルノ映像でも“I’m coming!”と、やはり女性の方が絶叫している(日本語と違いちゃんと主語のあるのが面白い)。

 

 これを“電撃が頭のてっぺんから体の芯を貫く感じ”と説明してくれた仏語圏の女性があったが、体全体で感じる女性にして言えることで、針の先ほどの部分でしか感得できない男には望むべくもない。

 

  ≪イク≫はやはり女性のものだ。神は、産褥の苦しみの代償として与え給うたのか。

 ともあれ、多くの点で女性優位にあることは、それはそれとしてもっと喚起されなければならないが、ほんとはそれはさほどの問題ではない。

 

 もとより、男女ペアでしかできないのであるから、必要なのは、何よりも互いの違い認識することである。 

 

 とくに男における再認識が求められる。そこにこそ単なる生殖のみではなくせっかく人にだけおまけにつけてくれた快楽を十全に楽しむ道がある。